平家物語を読む191

巻第十二 六代被斬*1(二)

 さて、建久元年十一月七日、鎌倉殿が都を訪れた。九日に正二位大納言になり、十一日には大納言右大将を兼ねる事が決まった。ところがすぐに両職を辞して、十二月四日に関東へ向かった。
 建久三年三月十三日に後白河法皇崩御、御年は六十六でいらっしゃった。真言の密行を修する際に打ち鳴らされる振鈴の響きはその夜が最後となり、法華経を読む御声もその明け方に途絶えた。
 建久六年三月十三日に奈良・東大寺の大仏の再建供養が行われるという事で、鎌倉殿は二月中に都を訪れた。三月十二日、大仏殿を訪れた際、鎌倉殿は梶原景時を呼んで言った。「転害門*2の南の方、何十人かの僧を隔てた所に怪しげな者が見えた。連れて来なさい」梶原は承知してすぐにこの者を連れてきた。ひげは剃っているが髪は剃っていない男だった。「何者だ」と問うと、「これ程までに運命が尽き果てています上は、とやかく言っても仕方ないでしょう。私は平家の侍で、薩摩中務・家資*3という者でございます」と答えた。「それでお前は何を思ってこのような姿になったのか」「もしや鎌倉殿を討ち取れるのではと、狙っていたのでございます」「その気構えは立派なものだ」と、鎌倉殿は言った。大仏再建の供養を終え、鎌倉殿が都へ戻って後、六条河原にて家資は切られた。
 平家の子孫は文治元年の冬の頃に、一歳の子も二歳の子も残らずすべてが探し出されて殺された。さすがに妊娠している母親の腹を切ってまで確かめるという事はなかったが、今ではもう一人も残っていないと思われていた。ところが、新中納言・知盛卿の末子で、伊賀大夫・知忠*4という人がいた。平家が都を離れた時は三歳だったため捨て置かれたのを、乳父の紀伊次郎兵衛為教*5が養って、あちこちと隠れながら歩き、最終的には備後国の太田*6という所で人目を忍んで暮らしていた。成長するにつれ、土地の地頭・守護が怪しむようになったので、都へ行き法性寺*7内の一の橋という所に隠れていた。ここは祖父の故清盛公が、万一の時には城郭にもしようと堀を二重に掘って、四方に竹を植えた場所だった。木を逆さに並べて防壁とし、昼は音も立てずに静かに過ごし、夜になると優れた仲間たちが多く集まってきて、詩や歌を詠んだり管弦などをしたりして遊んでいた。これがどこからか漏れたのだろう、その当時、人々がひどく恐れていた一条の二位入道・能保*8という人がいた。その侍の後藤兵衛基清*9の子である新兵衛・基綱が「一の橋に天皇の命に背く者がいる」と聞きつけ、建久七年十月七日の午前八時半頃、総勢百五十騎ほどで一の橋へ駆けつけ、うめき叫んで攻め寄せた。城の内にいた三十人ほどが、もろ肌を脱いで竹の陰から次々と矢を射たので、多くの馬と人が射殺され、面と向かって戦う事もできない。そうしているうちに、一の橋に天皇の命に背く者がいると聞いた都の武士たちが我も我もと急ぎ集まってきた。瞬く間にその勢が一、二千騎になったので、近辺の小家を壊して持ち寄り、堀を埋めてから、うめき叫んで攻め入った。城の内の兵士たちも太刀や長刀を抜いて走り出る。討ち死にする者もあれば、重傷を負って自害する者もいた。伊賀大夫知忠はこの時十六歳であったが、重傷を負って自害した。乳父の紀伊次郎兵衛入道は知忠の亡骸を膝の上に乗せ、涙をはらはらと流すと、大声で念仏を十篇唱えながら、腹をかき切って死んだ。息子の兵衛太郎と兵衛次郎も共に討ち死にしてしまった。城の内にいた三十人ほどは、ほとんどが討ち死にか自害をして、館に火をかけた。そこへ武士たちが駆け入って、討った首を取り上げ、太刀や長刀の先に貫くと、一条の二位入道・能保の邸へ急いだ。能保は車に乗り込んで一条の大路へ出ると、自ら首の検査を始めた。紀伊次郎兵衛入道の首は、見知っている者もわずかだがいた。が、伊賀大夫知忠の首は誰が見知っているというのだろう。この知忠の母親は、治部卿局*10といって、この時は八条の女院*11に仕えていた。これを呼んで確認をさせた。「知忠が三歳という時に故知盛卿に連れられて西国へ向かって後は、生きているとも死んでいるとも、その行方は分かりませんでした。ただ、故知盛卿の面影がところどころに見えるのは、その人でしょう」と言って泣いたので、人々は初めてそれを伊賀大夫知忠の首だと知ったのだった。
 平家の侍の越中次郎兵衛盛次は、但馬国へ逃げて、気比四郎道弘の婿になっていた。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町*12も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいた。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下された。「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命であった。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になった。よって越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行った。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねた。「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛次ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」と言ったので、「それならば切れ」と、由井の浜*13に引き出して首を切ってしまった。越中次郎の振る舞いを誉めない者はいなかったという。
 この頃、後鳥羽天皇は詩歌管弦ばかりをなされて、政治についてはまったく卿の局*14の思いのままであったので、人々の嘆きがとどまる事はなかった。呉では王が剣の達者な者を重んじたため、世の中に負傷する者が絶えなかった。楚では王が細腰の美人を愛したため、宮中では食事を減らして死んでしまう者が多かった。上の好みに下は従うものなので、世の中が危うい事を悲しみ、情けの分かる人は嘆き合った。ここに、とてつもない修験者である文覚が、口を出してはならない事に口を出したのである。二の宮*15は学問に長けられ、正しい道理を第一と考えられていたので、どうにかしてこの二の宮を皇位につけて差し上げようと計らったのである。前右大将・頼朝卿が生きているうちは叶わなかったが、建久十年一月十三日に頼朝卿が死んだので、すぐに謀反を起こそうとした。が、これがたちまち発覚して、二条猪熊の宿所に、検非違使庁の役人が差し向けられ、文覚は捕まえられた。八十歳を過ぎていたというのに、隠岐へ流されたのである。都を出る時、文覚は「これほど老境になってから、今日とも明日とも分からぬ身を、たとえ天皇のお咎めといえども、都の周辺にはお置きにならないで、隠岐国まで流されるとは、毬杖*16の若僧には我慢がならない。必ずいつか文覚が流された国へ、お迎え致しますぞ」と言ったというから恐ろしい。後鳥羽天皇が余りに毬杖の玉を好まれた事に対する悪口であった。ところが、承久三年五月に、後鳥羽院が謀反を起こされ*17、たくさんある国の中でも隠岐国へ流された事は不思議な事であった。隠岐国でも文覚の亡霊が暴れて、よく後鳥羽院に物語りをして差し上げたとも聞く。
 さて、六代御前は、三位禅師として高雄で修行に専念していたが、「あの人の子であり、この人の弟子である。髪を下ろしたとしても、心までは世を捨ててはいないだろう」と、鎌倉から何度も所望があった。結局、安判官資兼*18が命じられ、捕まえて関東へ連れて行った。駿河国の住人の岡辺権守・泰綱*19が命じられ、田越川*20で切った。十二歳から三十歳を過ぎるまで生き永らえる事ができたのは、ひとえに長谷の観音のご利益と聞く。これにより、平家の子孫は永久に絶えたのだった。

―巻第十二 終わり―

巻第十二の月日

*1:ろくだいきられ

*2:東大寺の西面にある門

*3:いえすけ

*4:ともただ

*5:ためのり

*6:広島県世羅郡世羅町

*7:ほっしょうじ:藤原忠平が九条河原に創建した寺

*8:よしやす:藤原氏北家で頼朝の妹婿に当たり、邸が一条室町にあった

*9:もときよ

*10:じぶきょうのつぼね:知盛の妻

*11:鳥羽天皇の第三皇女

*12:約1.5キロから2.2キロ

*13:鎌倉市由比ガ浜

*14:乳母の藤原範子

*15:高倉天皇の第二皇子の、守貞親王

*16:木製の毬を打って競う遊戯

*17:承久の乱

*18:すけかね

*19:やすつな

*20:現神奈川県逗子市を抜けて海に注ぐ川