GIFT FROM THE SEA

1ヶ月ほど前、約20年ぶりにアン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈物(吉田健一訳)」を手に取った。須賀敦子が著書の中でこの本について書いているのを読んで、ふと今また読んでみたくなったのがきっかけだった。

当時、名著と聞いて読んではみたものの、著者の思いが私の心の奥まで届くことはなかった(ただ、新潮文庫の表紙は気に入っていた)。それが、50代になった今、時間も空間も超えて心に残る言葉がちりばめられていることに気付いた。通勤の行き帰りの電車の中で繰り返し読み続けた。

 しかし私は何よりも先に、-こういう他の望みもやはりそこを目指しているという意味で、-私自身と調和した状態でいたい。(「ほら貝」より)

 しかし今日では、私たちは私たちの孤独の世界に自分の夢の花を咲かせる代わりに、そこを絶え間ない音楽やお喋りで埋めて、そして我々はそれを聞いてさえもいない。それはただそこにあって、空間を満たしているだけなのである。この騒音が止んでも、それに代わって聞こえてくる内的な音楽というものがなくて、私たちは今日、一人でいることをもう一度初めから覚えなおさなければならないのである。(「つめた貝」より)

 極く短い時間にわたる日の出貝の関係が、二人の間で実現できる凡てだったのかも知れないので、それならばそれは、そのこと自体が一つの目的であったのであり、もっと深い関係の基礎になる性質のものではなかったのである。(「日の出貝」より)

 それで我々は少なくとも中年になれば、本当に自分であることが許されるかも知れない。そしてそれはなんと大きな自由を我々に約束することだろう。(「牡蠣」より)

 しかし各個人がこうして完全に自分になり、自足した一つの世界になれば、男と女はそれだけお互いから離れることになるのを免れないのではないだろうか。確かに、成長するというのは分離することであるが、それは木の幹が育つに従って枝や葉に分れるのと同じことである。(「たこぶね」より)

 なぜなら、つまらないことだけでなくて、重要なことも我々の生活の邪魔をするからである。一つか二つの貝殻ならば意味があるのに、我々は宝ものを、-貝殻を持ち過ぎているという場合も生じる。(「幾つかの貝」より)

ところで、新潮社の「海からの贈物」は翻訳が素晴らしい。この翻訳でなければ、この本がここまで長い間、日本で読み継がれることはなかったのではないかと思う。原文で読んでみたような気もするが、私の英語力をもって原文で読んだときに、この感動を超えることがあるのだろうかと思うと躊躇してしまう。