平家物語を読む101

Oak

巻第七 願書*1

 木曾義仲は「平家はきっと大勢であろうから、砺波山を越え開けた所へ出て、正面から戦うつもりであろう。だが、正面からぶつかり合う戦は、兵士の数でその勝敗が決まるものだ。兵士の多い事をかさにかけて攻められてはまずい事になるだろう。まず、旗を持つ騎乗の者を先に行かせ、白旗を掲げさせる。これを見た平家は『何と、源氏の先陣が向ってきたぞ。きっと大勢であるに違いない。敵はこの辺りの地理に通じているが、我々はそうではない。むやみに開けた所へ軍勢を進めて、敵に包囲されてはどうにもなるまい。この山は四方が岩であるというから、背面からの軍勢はまさかやって来ないだろう。しばらくの間、馬から下りてとどまろう』と、山の中にとどまるだろう。その時にこの義仲がしばらく応戦するようなふりをして、時間をかせぎ、平家の軍勢を倶梨伽羅の深い谷へ追い込もうと思っている」と言うと、まず白旗三十旗を先頭に、黒坂の上に向った。思ったとおり、これを見た平家は「何と、源氏の先陣が向ってきたぞ。きっと大勢であるに違いない。敵はこの辺りの地理に通じているが、我々はそうではない。むやみに開けた所へ軍勢を進めて、敵に包囲されてはどうにもなるまい。この山は四方が岩であるというから、背面からの軍勢はまさかやって来ないだろう。馬に草を食わせるにも、水の便にもここはよさそうだ。しばらくの間、馬から下りてとどまろう」と、砺波山の猿の馬場という平坦な地で、馬から下りたのだった。
 埴生に陣を構えた義仲が四方をきっと見回すと、夏山の峰の緑の林間から、神社の朱塗りの屋根がうっすらと見える。先を斜めに切り落とした千木を屋根に取り付けた社殿であった。前には鳥居が立っている。義仲は国の地理に詳しい者を呼んで、「あれは何という宮か。どのような神を祀っているのか」と聞くと、「八幡*2でございます。すなわちここは、八幡の御領なのでございます」と答えた。義仲は非常に喜んで、文書を書く役に当てられていた大夫房・覚明*3を呼ぶと「義仲は幸いにも、本宮より勧請した八幡宮の分社の御宝殿の近くで、合戦をしようとしていたのだ。どう考えても、今度の戦は間違いなく勝つと思われる。それならば、一つは後代のため、もう一つは現在の祈祷に、願書を一筆書いて納めようと思うのだが、どうであろう」と言った。覚明は「それはもっともでございます」と、馬から下りた。覚明は濃紺の衣に黒革で綴った鎧を着て、黒い漆塗りの太刀を帯び、二十四本の黒いほろ羽ではいだ矢を背負い、藤のつるが隙間なく巻かれた黒い漆塗りの弓を脇にはさんでいる。甲を脱いで肩の紐に掛け、えびらの下から小硯とたとう紙を取り出すと、木曾殿の前でかしこまって願書を書き始めた。見事な文武両道の達者であるかと思われた。
 この覚明という者は、もともと儒者の家の出身である。蔵人・道広といって、勧学院*4にいたが、出家して最乗房・信救*5と名乗った。奈良の興福寺にもよく通っていた。先年、高倉の宮*6園城寺*7に入られた時、園城寺が訴状を比叡山興福寺に送った事があったが、興福寺の僧たちに返事を書かされたのがこの信救であった。「清盛は平氏の米ぬか、武家のちりのようなものである」と書いたと聞いた清盛公がひどく怒って「信救法師とやら、この私を平氏の米ぬか、武家のちりと書くとは何事だ。その法師を捕まえて死罪にしてしまえ」と言うので、信救は奈良から逃げ、北国へ向った。その後、木曾殿の文書を書く役につき、大夫房・覚明と名乗った。願書の内容は以下の通りである。
仏の教えに帰依し、頭を地につけて礼拝する。八幡大菩薩は日本の朝廷の本来の主君であり、代々の明君の先祖である。その位を守るため、人民を救うために、阿弥陀三尊*8の光り輝く尊い姿を現して、応神天皇神功皇后比売神の三体が神の姿で現れなさる。近年、平清盛という太政大臣がいた。四海を我が物とし、民衆を苦しめた。これは既に仏法のかたき、王法の敵である。義仲はかりそめにも武士の家に生まれ、父祖の業を受け継いだ。あの悪行を考えると、思慮するには及ばない。運を天にまかせて、この身を国家に捧げよう。試みとして、正義のために兵を起こし、凶悪な賊徒を退けるつもりである。よって、源平両家が兵を進め対陣しているのだが、兵士たちにはまだ心を一つにして戦おうという士気がなく、心がばらばらである事を懸念していたところ、先陣が旗を上げる戦場にて、思いがけず八幡三所の本地である仏がその光りを和らげて神として現れた神社を拝する事ができた。私の祈願をかなえてくださることは明らかで、賊徒が罰せられる事は間違いない。歓喜の涙がこぼれ、渇して水を求めるように神仏の助けを仰ぐ次第である。とりわけ、曽祖父である前陸奥守・源義家朝臣がその身を社の氏子として捧げ、名を八幡太郎としてからこれまで、その一門の子孫である者で帰依しない者はいない。義仲もその末裔として、帰依してから長い年月が過ぎている。今始めようとしているこの大きな仕事は、幼児が貝殻で大海の水の量をはかったり、蟷螂が斧を振り上げて大車に立ち向かったりするようなものである。けれども国のため、君主のためにこの仕事を始める。家のため、自身のために始めるのではない。この誠実な心が神に通じたのだ。何と頼もしく、喜ばしい事であろう。どうか、冥界の仏と、現世に現れた神の霊威で、すぐさま我々に勝利をもたらし、敵を四方に退けてください。丹誠込めた祈りが神仏の心に届き、加護くださるのならば、まずそのしるしを一つ、見せてください。
 寿永二年五月十一日   源義仲
義仲は自分を始めとする十三人から、鏑矢の鏑を抜くと、それらを願書と共に大菩薩の御宝殿に納めた。頼もしい事に、大菩薩は真実の志が二つとない事を当然、ご存知であったのだろう、雲の中から山鳩が三羽現れ、源氏の白旗の上を飛び回ったのである。
 昔、神功皇后*9新羅を攻められた時、味方の軍勢は弱く、異国の軍勢は強かった。もうこれまでかと思われた時、皇后が天に祈願なされたところ、鳩が三羽現れ、異国は戦に破れた。また、義仲の先祖である頼義*10前九年の役で、安倍貞任・宗任を攻めた時も、味方の軍勢は弱く、賊徒の軍勢は強かった。頼義が敵の陣に向って、「これは私の放つ火ではない、神の火である」と言って火を放ったところ、急に風が賊徒の方へ吹き始め、火は貞任の館である厨川城*11を焼いた。その後、戦に破れ、貞任・宗任は死んだ。義仲はこのような先例を忘れてはいなかった。馬から下りると甲を脱ぎ、手を洗って口をすすぐと、空に現れた鳩をおがんだ。どれほど心強かった事であろう。

*1:がんしょ

*2:小矢部市埴生の護国八幡

*3:かくめい

*4:藤原氏一門のための学校

*5:さいじょうぼうしんぎゅう

*6:以仁王

*7:三井寺

*8:八幡神の本地

*9:仲哀天皇の后で、天皇の没後、三韓を討った

*10:よりよし:清和源氏

*11:くりやがわ:現岩手県盛岡市安倍館町に跡地がある