平家物語を読む125

巻第八 室山*1

 さて、木曾義仲備中国の万寿の庄*2に軍勢をそろえ、今にも屋島へ攻め入ろうとしていた。そこへ、義仲が留守にしている間、都を守るために残っていた樋口次郎兼光からの使者が到着した。「十郎蔵人行家殿が、殿のいらっしゃらない間に、後白河法皇の恩寵を受けている人を通して、殿を陥れるような事を伝えています。西国の軍勢をしばらく待たせて、すぐに都へお戻りください」これを聞いて、義仲は「それならば」と、夜も眠らずに急ぎ都へ向った。まずい事になると思ったのだろう、行家は義仲に顔を合わさないようにと、丹波路を経由して播磨国へ向っていた。義仲は摂津国を経て、都へ戻った。
 平家は再び義仲を討とうと、新中納言・知盛卿と本三位中将・重衡を大将軍、越中次郎兵衛・盛次、上総五郎兵衛・忠光、悪七兵衛・景清を侍大将にして、総勢二万騎ほどが千艘の舟に乗り、播磨の地へ渡ると、室山*3に陣を構えた。ここに、平家と戦をして義仲と仲直りをしようと思ったのだろう、十郎蔵人行家が総勢五百騎ほどで室山へ押し寄せたのである。平家は陣を五重に固めていた。一陣は越中次郎兵衛・盛次が率いる二千騎、二陣は伊賀平内左衛門・家長*4が率いる二千騎、三陣は上総五郎兵衛・忠光と悪七兵衛・景清が率いる五千騎、四陣は本三位中将・重衡が率いる三千騎、五陣は新中納言・知盛卿が率いる一万騎である。そこに行家が五百騎で喚声を上げて攻めかかった。一陣の盛次はしばらく相手になるようなふりをして戦ってから、間をざっと開けて敵を通した。二陣の家長も同じように間を押し開けて敵を通した。三陣も、四陣の重衡もやはり開けて通した。こうして一陣から五陣まで、前もって計画していた通りに、敵を中に取り囲んだ上で、一度に喚声をどっと上げたのである。行家は、今となっては逃れる術もなく、計略を立てる事もできないと悟り、脇目もふらず命も惜しまず、ここを最後と攻め戦った。平家の侍たちは「源氏の大将に組むのだ」と、我先にと前へ進むが、さすがに行家の馬に自分の馬を押し並べて組み打ちする武者は一騎もいない。知盛卿が頼りにしている紀七左衛門・紀八衛門・紀九郎などという兵士たちは、ここで皆、行家に討ち取られてしまった。だが、十郎蔵人行家の五百騎はわずか三十騎になるまで討たれ、四方は皆、敵となった。味方はほとんどいない。どうすれば逃れる事ができるか分らないが、決死の覚悟で、雲霞のごとく重なる敵の中を割って通った。家来・従者の二十騎ほどはひどく負傷したが、行家自身は負傷もせずに敵の陣を逃れたのだった。播磨国高砂*5から舟に乗り、何とか和泉国に着いた。そこからは河内へ向い、長野城*6に引きこもってしまった。平家は室山・水島と二度の戦に勝ち、いよいよ優勢になったのである。

*1:むろやま

*2:岡山県倉敷市の北部、都窪郡山手村清音村に接する辺り

*3:兵庫県揖保郡御津町室津の丘

*4:桓武平氏

*5:兵庫県高砂市

*6:大阪府河内長野市内にあった