巻第七 一門都落*1
池の大納言・平頼盛*2卿も、邸・池殿*3に火をかけて都を発ったが、鳥羽殿*4の南門の辺りで、「忘れた事がある」と言って、平家のしるしである赤い布を切り捨てると、自分の軍勢・三百騎を連れて都へ引き返した。平家の侍である越中次郎兵衛盛次が大臣・宗盛公の前へ急ぎやって来て言った。「あれをご覧下さい。頼盛殿が都に残り、大勢の平家の侍たちもお供して残っているのは、けしからぬ事に思われます。大納言・頼盛殿を射るのははばかられますが、侍たちに矢を一本射てみましょう」だが、宗盛公は「年来の重恩を忘れて、今のこの状態を最期まで見届けようとはしない人でなしを、そこまでする事はないだろう」と言うだけだったので、盛次はどうする事もできずにその場に留まった。「さて、小松殿の人々*5はどちらに」と尋ねると、「まだ一人もいらしてはいません」と答える。その時、新中納言・知盛は涙をはらはらと流しながら、「都を出てまだ一日も過ぎていないというのに、早くも人々の心が変わってしまうとは情けない事だ。ならば、この先も当然、そうなるに違いないだろう。いっその事、都の中で討ち死にしようではありませんか」と言って、宗盛公の方を恨めしそうに見た。
そもそも頼盛卿が都に残ったのはどうしてかと言うと、兵衛佐・頼朝は常々、頼盛を気にかけていて、「あなたをおろそかに思う気持ちはまったくありません。私をお助けくださった故池の禅尼と同じように考えております。八幡大菩薩もよくよくご覧になっている事でしょう」などと、何度も神仏に誓いを立てた書状を送って来た上に、平家追討のための討手が都に向うごとに、「十分な心構えを持ち、池殿の侍たちには決して弓を引くな」などと情けを掛けていたので、頼盛卿は「一門の運は尽き、平家は既に都を出た。今となっては、頼朝に助けてもらう事にしよう」と言って、都へ戻ったのだと聞く。頼盛卿は、八条女院*6の常葉殿という山荘へ向かい、そこにこもってしまった。八条女院の乳母の子で宰相殿という女房と夫婦の関係である事によった。「不慮に事件であるので、頼盛をきっと助けてください」と伝えたが、八条女院は「今は自分の思いのままになる世の中ではないのですから」と、頼りなげにおっしゃるばかりである。概して、兵衛佐・頼朝の好意だけはわかっているが、それ以外の源氏たちはどうなのであろうか。なまじっか平家一門から離れた頼盛卿は、どっちつかずの落ち着かない心持ちであった。
さて、小松殿の人々はというと、三位中将・維盛卿を始めとして、兄弟六人が千騎ほどで、淀の六田河原の辺りで天皇の一行に追いついた。待ち望んでいた宗盛公が嬉しそうに「どうしたのだ、今までかかるとは」と尋ねると、維盛卿は「幼い者たちが余りに恋しがるので、何とかなだめようとしているうちに遅くなってしまいました」と答えた。宗盛公に「どうして頼もしい六代殿を連れてこなかったのか」と聞かれたため、「この先、期待の持てる状態とは思えませんので」と、維盛卿が返って悲しみを新たにし、涙を流したのは悲しい事であった。
都を落ちる平家は誰々であろうか。前内大臣・宗盛公、平大納言・時忠、平中納言・教盛、新中納言・知盛、修理大夫・経盛、右衛門督・清宗、本三位中将・重衡、小松三位中将・維盛、新三位中将・資盛、越前三位・通盛、殿上人では蔵頭・信基、讃岐中将・時実、左中将・清経、小松少将・有盛、丹後侍従・忠房、皇后宮亮・経正、左馬頭・行盛、薩摩守・忠教、能登守・教経、武蔵守・知明*7、備中守・師盛*8、淡路守・清房*9、尾張守・清貞*10、若狭守・経俊*11、兵部少輔・正明*12、蔵人大夫・成盛*13、大夫・敦盛*14、僧では二位僧都・専親*15、法勝寺執行・能円*16、中納言律師・仲快*17、経誦坊阿闍梨・祐円*18、侍では国司・検非違使・衛府・諸司が百六十人、その勢は全部で七千騎ほどである。これは、ここ二、三年の間の東国・北国の幾度もの戦で討たれた中で残った、わずかな軍勢であった。山城国と摂津国の境の山崎*19にある関の官舎に天皇の御輿を打ち捨てて、石清水八幡宮を伏し拝み、大納言・時忠卿が「身命を捧げて仏法に帰依いたします。八幡大菩薩、どうか天皇を始めとして、我々を都へお返しくださいますよう」と祈ったというから悲しい事である。それぞれが後ろを振り返ると、空が霞んでいるような気がする。都に放った火による煙が、平家の人々の心情のように心細く立ち上っていたのであった。中納言・教盛卿が、
はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな*20
と詠めば、修理大夫・経盛はこう詠んだ。
ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく*21
本当に、煙となった故郷を背中にして、雲のかなたの遠い旅路を行くとは、人々の心の内を思うと気の毒で仕方がない。
肥後守・貞能は、河尻*22に源氏が待っていると耳にして、これを追い散らそうと五百騎ほどで赴いていたが、根拠のない噂話だったため、戻ろうとしていたところ、鵜殿*23の辺りで、天皇の一行に追いついた。貞能は馬から飛び降り、弓を脇にはさんで宗盛公の前にかしこまると、「これはそもそも、どちらへと向っているのでしょうか。西国へ下ったならば、落人だと、あちこちで討ち散らされ、不名誉な評判を広める事になり、それはとても悔しい事です。いっその事、都の中でどうにでもなろうではありませんか」と言った。宗盛公が「貞能は知らないのか。木曾義仲は既に、北国から五万騎で攻め上り、比叡山の東坂本にあふれている。この夜中には後白河法皇のお姿も見当たらなくなった。我々の身の上の事だけならどうにでもなろうが、女院・二位殿に目の前で辛い思いをさせるのは心苦しいので、天皇をお連れし、人々も連れてひとまず都を離れようと思っているのだ」と言うと、貞能は「そうであるならば、貞能は暇をいただいて、都にてどうにでもなろうと思います」と、連れていた五百騎ほどの軍勢を小松殿の息子たちに預けて、わずか三十騎の配下の軍勢で都へ引き返してしまった。
都の中に残る平家の余党を討つために貞能が戻ってきたという噂が流れると、池の大納言・頼盛は「頼盛の身の上に関わる事であろう」と、騒ぎ出した。貞能は西八条の焼け跡に幕を引き、一晩泊まったが、他にはどこにも都へ戻った平家の人々がいないので、さすがに心細くなったのだろう、源氏の馬の蹄にかかってはなるまいと、重盛公の墓を掘らせ、遺骨に向って泣きながら話しかけた。「何と情けない事でしょう、平家一門をご覧ください。命のある者は必ず滅び、楽しみが尽きてやがて悲しみが来ると、古来から書き伝えられている事ではありますが、目の当たりにしてこれほど辛い事はありません。君はこのような事を真っ先に悟られて、かねてから仏神・三宝*24に祈誓なされて、早くにこの世を去られました。本当に立派な事と存じます。その時、この貞能も最期のお供をするべきであったものを、生きていても甲斐のない命を生きて、今はこのような辛い目にあっています。死期が来た時には、必ずや極楽浄土へお迎えください」泣きながらこう訴えると、貞能は重盛公の遺骨を高野山へ送り、辺りの土は賀茂川に流させた。今の有様ではもう当てにならないと思ったのだろう、主人とは反対の方向の東国へと去っていった。宮廷警護の任務*25で上京の間に源氏の謀反が起こり、閉じ込められていた東国の武士・宇都宮左衛門朝綱*26は、知盛の進言により帰国する事ができたが、都でその身柄を預かり温情を掛けていたのが貞能であった。その縁により、貞能は宇都宮を頼って東国へ下ったところ、宇都宮は人々の反対を退けて貞能を厚遇したと聞く。
*1:いちもんのみやこおち
*2:よりもり:忠盛の子で清盛の弟であり、母の池の禅尼が源頼朝の命乞いをした
*5:故重盛の子息たち
*7:ともあきら:知盛の長男
*8:もろもり:故重盛の五男
*9:きよふさ:清盛の七男、または八男
*10:きよさだ:清房の弟
*11:つねとし:経正の弟
*13:なりもり:教盛の子
*14:あつもり:経盛の子
*15:せんしん:藤原親隆の子で、清盛の妻・時子の甥に当たり、清盛の養子となった
*16:のうえん:藤原顕憲の子で、母や平時信と再婚し、時忠と時子を生んだ
*17:ちゅうかい:教盛の子
*18:ゆうえん:経盛の子か
*20:はかない事だ、家主が家を捨てて雲のかなたへと別れ去っていくと、家も焼かれて煙となって雲のかなたに立ち上っていくとは
*21:故郷が焼け野原と化した様子を振り返りながら、やはり煙に霞んでいるような前途に向って海路を行くのである
*22:淀川の河口
*24:仏・法・僧
*26:ともつな