湿原

9月1日に書いた「ナキウサギ」は、私的な出来事の一つの側面だ。

実はこの出来事には大きくは二つの側面がある。二つの側面は真ん中で繋がっている。

もう一つの側面について今は書く気はない。それが何なのか、まだ自分でもわかっていない。何かがわかったとしても、書くことはないように感じている。ただ、もう一つの側面からこの出来事を書いたとき、まったく違う印象の話しになることはわかっている。そもそも一つの出来事ではなく、二つの出来事がある一点で繋がっただけなのかもしれないとも思う。

一つに見えるある出来事についてでさえ、その全容を明確に把握することも説明することもできない。それなら、一人の人間についてはなおさらだろう。

人間そのものは立体的なあるいはそれ以上の広がりをもっている。だから、切り口によってはまったく違う側面を見せるときがある。

言葉はすごい発明だけれど、立体的な広がりを表現するには十分なツールではなく、少なくとも私の技術では平面的な表現を層のように積み重ねていくことくらいしかできない。人間は同じ方向に積み重ねられた層によって構成されている訳ではないから、私が言葉で表現したものは嘘ではないけれど、ある特定の方向から見たほんの一部の真実を見せているにすぎない。実体とはほど遠い。

誰かから出てくる言葉も同じで、それはその人のそのときの真実ではあるけれど、その人のすべてではないということを理解しておくといいのかもしれない。その人がその言葉を言うのは、今はそう思っているか、今はそう思いたいかのどちらかだ。私たちは往々にして自分がどの切り口から言葉を発しているのかを意識していない。

自分ではない誰かに対して私たちができることは、結局のところ見守ることだけなのだろうか。

2019.08_月山・弥陀ヶ原