名前

紅葉

 思わず立ち上がりながら、彼は「そうか海は海だってことか」と呟いた。そうしたら、急に笑い出したくなった。「そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ」
―「コカコーラ・レッスン」谷川俊太郎 これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集 (集英社文庫) より

 ある日、すぐ目の前の木に小鳥が下りた。灰色と白の羽毛を持った見慣れた姿をしている。この辺りによくいるNorthern Mockingbird(マネシツグミ)だ。用事があるので私はその場を立ち去った。
 別の日、遠くの梢から鳥の美しいさえずりが聞こえてきた。が、姿は見えない。その旋律はコロコロと玉を転がすようだったり、尾を引くように長かったりして、一向に聴き飽きることがない。しなければならない用事があるのに、私はしばらくその歌声に聴き惚れた。やがて声の主が飛び立ったのを見て、驚いた。灰色の体に白い条の入った羽、Northern Mockingbird(マネシツグミ)だった。
 もし、始めからこの声の主の姿が見えていて、珍しくもないNorthern Mockingbird(マネシツグミ)だとわかっていたら、私は歌声に耳を澄ますことなく早々に立ち去ったことだろう。名前とは厄介なものである。名前を知っていることで、そのものをすべてわかったような気になってしまう。だが本当は何も見ていなく、聴いていなく、感じていないことがほとんどなのだ。それを思い知らされる出来事だった。
 美しい自然の中にいると、言葉を忘れることがある。木の葉を揺らす風に身をゆだね、幾重にもなって聞こえてくる小鳥の声に耳を澄ませ、木々の間から漏れ射る光が映し出す風景を見ていると、まったく沈黙している自分がそこにはいる。辺りでさざめくのは「木」という名前のものではなく、緑の葉を体中にまとったしなやかな何か。時折、姿を現すのは「鳥」という名前のものではなく、ふわふわの羽毛からできた小さな足を持つ愛らしい何か。ひっきりなしに体を撫でるのは「風」という名前のものではなく、柔らかくて少し冷たい何か。
 私が、単なる「名前」ではなく、そのもの本来の姿を感じるのは、こういうときだ。
 だが、すべてが輝いて見えるこういう瞬間以外は、冒頭に書いた出来事のように「名前」に捕らわれてしまっていることがほとんどである。
 「名前」に捕らわれず、目の前のものをじっくり見て味わう習慣を積み重ねていけば、今は時に輝いて見える世界も、常に輝いて目に映るようになるのだろうか。
 本当の詩人や画家とは、そういう目を持っている人のことを言うのかもしれない。