平家物語を読む33

巻第二 康頼祝言*1

 さて、鬼界が島の流人たちはというと、葉の上から今にも落ちて消える露のようにはかない命であるから、命が惜しいというのではなかったが、少将・成経の舅である門脇の宰相の所領・肥前国鹿瀬*2からいつも送られてくる衣服や食料によって、俊寛僧都も康頼も生き永らえていた。康頼は流される途中、周防国の室積*3で出家し、性照*4という法名をつけられた。出家は以前からの望みであったので、
   つひにかくそむきはてける世間(よのなか)をとく捨てざりしことぞくやしき*5
と歌を詠んだ。
 成経、康頼は、もとから熊野信心の篤い人々であったので、「どうにかしてこの島の中にも、熊野の三所権現*6の来臨を乞い、その霊を移してまつり、都へ帰れるように祈りましょう」と言った。だが、俊寛僧都は生まれつき信仰心のまったくない人であり、これに賛同しなかった。同じ心を持つ成経、康頼の二人が、もしかして熊野に似た場所があるかもしれないと、島の中を探し回ると、美しい林の連なる堤、紅の錦織物を広げたような野の草花、雲間にそびえる神秘的な高い峯と、色合いの美しい場所があった。山の景色、木立に至るまで、どこよりもすばらしい。南を望むと、海は広々と遠く広がり、波がはるかに霞んで雲や煙のように見える。北を振り返ると、山や岩が険しくそびえたち、百尺*7の滝から水が勢いよくあふれ落ちていた。滝の音は非常にすさまじく、松林に当たる風の神々しい様子は、飛滝権現のいらっしゃる那智の山にいかにも似ている。よってそこを那智の山と名づけた。この峯は本宮、あれは新宮、これはどこそこの何王子*8などと名をつけ、康頼を先達としてそれに成経が続き、連日熊野詣でのまねをして「南無、権現金剛童子*9、どうか憐れみをもって、故郷で今一度妻子に会えるよう帰してください」と祈った。日数がたったが作り変える白衣がないので、麻の衣を着て、熊野の岩田河と思って沢辺の水を浴び心身を清め、熊野本宮の総門と思って高い所に登った。神に捧げる御幣*10もないので、花を一本摘んで手にさげながら、参る毎に康頼は以下のような祝詞を言った。
「時のめぐりは治承元年丁酉、月は十二か月、日は三百五十日ほど、よい日柄を選んで、口に出して言うのももったいない日本一霊験あらたかな熊野三所権現、飛滝大菩薩の尊い神前で、信心の供養を行う当主は藤原成経並びに性照、身・口・意の活動が矛盾せず相互に調和した清くけがれのない心で、謹んで申し上げる。証誠大菩薩*11衆生を生死の苦海から救い、浄土へ渡す教主であり、法身・報身・応身の三つを一身の中に備えた仏である。あるいは東方の瑠璃光浄土にあり衆生の病苦を救った薬師如来*12である。あるいは南方で衆生を教化した千手観音*13で、仏になる直前の等覚の境地で更に重ねて凡夫以来の法門を修めた菩薩であり、若王子権現*14はこの世の本主、衆生が苦難の中でも畏怖する事のないよう恵みを施す菩薩で、十一面観音の頭上にある仏面により衆生の所願を見ていらっしゃる。よって、天皇から万民に至るまで、現世安穏のため、または後世に極楽浄土に生まれるために、朝には浄水で煩悩の垢を流し、夕には深山に向かって仏の名号を唱えると、その信心が仏に通じない事はない。険しくそびえた嶺を神徳の高さにたとえ、深く険しい谷を広く衆生を救うという仏の誓いになぞらえて、雲をかきわけて上り、露をしのいで下る。ここに菩薩の徳のような大地の力を借りずして、どうして険難の道を歩けようか。権現の徳を仰げば、菩薩は必ず幽遠の境にいらっしゃる。よって証誠大権現・飛滝大菩薩は慈悲深いまなざしを並べ、注意深く耳を傾けて、私たちのこの上ない真心を知り、一つ一つの願いを納受したまえ。那智と新宮の両所権現は衆生のそれぞれの能力・素質に従って、仏門に帰依している多くの人々を導き、仏教に縁のない非信心の生き物を救うために、七珍万宝で美しく飾られた荘厳な浄土の住処を捨てて、八万四千の相好から放たれる智慧の光を和らげ、六道三有*15に満ちあふれる煩悩に交わられた。よって、苦果を受ける定めの業因も観音を念ずればよく転じ、長寿を求めれば長寿を得て、私たちは捧げ物を神に捧げ続ける。恥を耐え忍び怒らぬ心を持たねばならない法衣を着て、真の道を知るために仏に花を捧げて、真摯な祈りで神仏の感応を得て、澄んだ池の水のように信心をこらし、仏の利益のように豊かな池をたたえる。納受されたのであれば、どうか所願を成就されたし。どうか十二所権現*16、利益の翼を並べて苦海のようなこの世をかけ、流罪の憂いを慰めて、都へ戻るというかねてからの願いをとげたまえ。再拝」

*1:やすよりのっと

*2:佐賀市嘉瀬町

*3:山口県光市室積村

*4:しょうしょう

*5:結局こうして出家してしまうと、どうしてもっと早く世間を捨てなかったのかとそれが悔やまれる

*6:本宮・熊野坐神社、新宮・熊野速玉神社、那智熊野夫須美神

*7:約30メートル

*8:「王子」は熊野三山末社で、その地名を冠して呼ばれた

*9:熊野三所権現護法神

*10:神祭用具の一つで、裂いた麻や畳んで切った紙を細長い木に挟んで垂らしたもの

*11:しょうじょう:熊野本宮第三殿証誠殿の本尊で、その本地は阿弥陀如来

*12:熊野速玉宮の本地が薬師如来

*13:熊野結宮の本地が千手観音

*14:熊野本宮第四殿で本地は十一面観音

*15:ろくどうさんう:天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの境涯と、欲有・色有・無色有の三つの世界

*16:熊野の三所権現・五所王子・四所明神の総称