平家物語を読む182

巻第十二 紺掻之沙汰*1

 同年の八月二十二日、高雄の文覚が鎌倉へと向かっていた。文覚は、鎌倉の二位・源頼朝卿の父である故義朝の正真正銘の首だというものを自身の首に掛け、弟子の首には故義朝の乳母の子である鎌田政清*2の首を掛けさせている。治承四年の頃に頼朝に見せた首*3は、本当の義朝の首ではなかった。謀反を薦めるために、縁もゆかりもない古い首を白い布に包んで差し出したのだ。頼朝は謀反を起こし、世の中を討ち取った。今では父の首だと少しも疑わずいるところへ、また文覚が訪れるのである。これには訳がある。長年、義朝にかわいがられ、召し使われていた布地を紺に染める職の男がいた。主人の首が獄門に掛けられたまま、後世を弔う人もいない事を悲しみ、男は当時の検非違使別当に会い、首の引渡しを願い出た。「息子の頼朝殿は流人でいらっしゃるが、行く末頼もしい人である、もしかして将来、出世して父親の首を探される事があるかもしれない」と、東山円覚寺*4という所に、深く埋めておいたのだった。これを文覚が聞き出し、今、その紺を染める職の男と共に、鎌倉へ向かっているというのだ。今日にも鎌倉へ着くという噂が流れると、頼朝卿は片瀬川*5まで迎えに出た。そこからは頼朝卿は鈍色の喪服姿になり、泣きながら鎌倉へ入った。文覚を大床に立たせ、自身は庭に立って、父の首を受け取る。何とも哀れであった。これを見た大名・小名で涙を流さない者はいない。岩石の険しい所を切り開いて、新しい寺院を造り、父のためにと供養を行った。その寺院は勝長寿院*6と言う。朝廷でもこの事を哀れに思い、故左馬頭・義朝の墓へ、内大臣正二位を贈った。この天皇の命を伝える使者は、左大弁・兼忠*7と聞く。頼朝卿は、武勇の誉れが高い事により、出世し家を再興しただけではなく、亡き父の霊に官位を贈るに及んだとはめでたい事であった。

*1:こんかきのさた

*2:藤原秀郷の子孫で、鎌田通清の子

*3:参照:巻第五「福原院宣

*4:浄土宗の寺で、粟田口の北、平安神宮の東にあった

*5:藤沢市片瀬で海に注ぐ川

*6:しょうじょうじゅいん:現鎌倉市雪ノ下にあった

*7:かねただ:村上源氏