平家物語を読む183

川

巻第十二 平大納言被流*1

 九月二十三日、平家の残存者で都にいる者をそれぞれの配所へ送るようにと、鎌倉殿が朝廷へ申し入れたため、それぞれが配所へ赴くこととなった。大納言・時忠卿は能登国、息子の讃岐中将・時実は上総国、蔵頭・信基は安芸国、兵部少輔・正明は隠岐国、二位僧都・専信は阿波国、法勝寺執行・能円は備後国中納言律師・忠快は武蔵国と聞く。ある者は西海の波の上、またある者は逢坂の関よりはるか雲の彼方へ赴く。この先どうなるのかも分からず、今後いつ再会できるかも分からない。別れの涙をこらえて、それぞれの配所へ向かう心の内が思われて気の毒であった。
 その中の一人、大納言・時忠卿は、建礼門院がいらっしゃる吉田*2を訪問して「時忠は罪が重いため、今日にも配所へ赴きます。おそばに仕えて、身の回りのお世話をと思っておりましたのに。結局どのような生活をなされる事になるのかと、心残りであります上は、とても都を出て行く気持ちにはなれません」と、泣きながら伝えた。建礼門院は「本当に昔からの知り合いというのは、もうあなたしかいらっしゃいません。今後、哀れみを持って、私を訪ねてくれる人はいないでしょう」と、涙が止まらないご様子であった。
 この時忠卿というのは、出羽前司・具信*3の孫、兵部権大輔贈左大臣・時信の息子である。故建春門院*4の兄であるため、故高倉上皇*5の母方の親戚に当たる。世間の名声、当時の繁栄ぶりは見事なものであった。故清盛公の北の方・二位殿*6の兄でもあるので、二つ以上の官職を兼ねる事も思いのままであった。よって瞬く間に昇進し、正二位の大納言に至ったのである。検非違使別当にも、三度なっている。この人が検非違使庁の事務をとっていた時は、窃盗・強盗をする者は事もなげに右の腕を真ん中から切り落とし、追放した。これにより「悪別当*7」と呼ばれた。安徳天皇及び、三種の神器を都へ返すようにと、後白河法皇が西国の平家に命を下した際、使者を務めた花形という者に、波の形の焼印を押した*8のもこの時忠卿の仕業である。
 後白河法皇も、故建春門院の兄であるからと、そばにおきたく思われていたが、花形の時のような悪行により、お怒りも浅くはなかった。親戚関係になった九郎判官・義経も、どうにかして減刑を願い出たいと思っていたがそれも叶わなかった。時忠卿の次男である時家という十六歳になる者が、流罪を免れて伯父の時光卿*9のもとにいた。母親の帥典侍殿と共に、時忠卿の袖にすがり、涙を押さえて、今日限りの名残を惜しんでいる。時忠卿は「この世においては、いつか必ず別れなければならないのだから」と心を強く持って言ったが、どれほど悲しい思いだったであろう。老齢になって後、これほど仲のよい妻子と別れて、住み慣れた都を遠く離れ、昔から名には聞くが行った事も見た事もない北陸への旅に赴くのである。旅の途中、あれは志賀・唐崎、これは真野の入江・堅田の浦と聞き、時忠卿は泣きながら歌を詠んだ。
   かへりこむことはかた田にひくあみのめにもたまらぬわがなみだかな*10
 昨日は西海の波の上に漂って、恨み憎む人とも会わねばならないという苦しみを小舟に積み、今日は北国の雪に埋もれて、愛する人にも別れなければならないという苦しみを故郷の雲に重ねるのだった。

*1:へいだいなごんのながされ

*2:京都市左京区吉田

*3:とものぶ

*4:後白河法皇の女御・滋子で、清盛の妻・時子の妹

*5:第80代天皇

*6:時子

*7:「悪」は、強さ・厳しさなどの意味を表す

*8:参照:巻第十「請文

*9:藤原氏で、時忠の妻・帥典侍の兄

*10:再び帰って来る事は難しいと思うにつけ、堅田の浦で引かれる網の目に水がたまらないように、私の涙もとどまるところを知らない