平家物語を読む168

Great Egret

巻第十一 鶏合 壇浦合戦*1

 そうしているうちに、九郎大夫判官・義経の軍勢は周防に渡り、兄である三河守・範頼の軍勢と一つになった。平家は長門国の「ひく島*2」に着いた。源氏は阿波国の勝浦について、屋島の戦に勝った。平家が「ひく島」に着いたと聞く頃には、源氏は同じ長門国の「おい津*3」に着いたというから不思議な事である。
 熊野の別当湛増*4は、平家の味方につくべきか、それとも源氏の味方につくべきかと迷い、田辺の新熊野*5で神楽を奏し、熊野三所権現に祈誓を行った。「白旗につけ」という神託があったが、それでもまだ疑いを持って、白い鶏七羽と赤い鶏七羽を権現の前で勝負させた。赤い鶏は一羽も勝たず、皆が負けて逃げてしまった。これにより、源氏の味方につこうと決心したのである。一門の者たちを集めると、その勢は二千人に及んだ。船は二百艘、若一王子*6の神体を乗せ、旗の横木には金剛童子*7を描いた。船が壇ノ浦*8へ寄せると、源氏も平氏も共に拝んだ。けれども源氏の方へついたので、平家は意気消沈してしまった。また、伊予国の住人・河野四郎道信も、百五十艘の兵船を率いて、源氏の方についた。義経はどれもこれも心強く、頼もしく思った。源氏の船は三千艘ほど、平家は千艘に大陸風の造りの大型の船が少々混ざっている。源氏の軍勢が増えていくのを見て、平家の軍勢は退いた。
 元暦二年三月二十四日の午前六時頃、豊前国の門司*9赤間の関*10にて、戦の開始の合図である矢合わせが行われる事に決まった。ところがその日、義経梶原景時が味方同士で今にも戦いそうになるという事件があった。梶原が「今日の先陣は、この景時にお任せください」と言った事が引き金になった。義経は「義経がいないのならともかくも、そうはいかない」と言う。「見苦しいですな。殿は大将軍でいらっしゃるではないですか」「思ってもみない事だな、鎌倉殿こそが大将軍であるぞ。義経は命を受けた身であるのだから、あなた方とまったく同じなのだ」義経がこう言うので、梶原は先陣を希望する訳にもいかず「生まれつきこの殿は、侍の主君になれるような人ではない」とつぶやいた。義経はこれを聞いて「日本一の愚か者だな」と言うや、太刀の柄に手を掛けた。梶原は「私の主君は鎌倉殿だけ、他の人から『愚か者』呼ばわりされるいわれはない」と、やはり太刀の柄に手を掛けた。よって、梶原景時の嫡子の源太景季と次男の平次景高、三郎景家も父親と同じ場所に集まった。義経の様子を見て、佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などという一人で千人の相手もするという兵士たちが、梶原景時を取り囲み、じりじりと詰め寄った。ところが、義経を三浦介義澄がさえぎり、梶原には土肥次郎が取り付いた。両人が手を合わせて「これ程の大事を前にしながら、味方同士で戦をしたならば、平家は力を盛り返すでしょう。ましてや、鎌倉殿に伝わったなら、ただでは済みませんぞ」と言うので、義経は気を静め、梶原もその場はあきらめた。これ以来、梶原は義経を憎み、ついには陥れて失脚させたのだと聞く。
 さて、源平の陣の間は海上三十町*11ほどである。門司・赤間・壇ノ浦は、水が逆巻き流れ落ちるかのように潮の流れが激しい。源氏の船は潮流に逆らって進んだが、心ならずも押し流されてしまう。平家の船は潮流に乗って現れた。沖の流れは速いので、海岸に沿って進む。梶原はすれ違う敵の船に熊手を掛けると、親子・従者が十四、五人乗り移り、太刀や長刀を抜いて船尾から船首へと散々に切って回った。討ち取った首は非常に多く、その日の軍功を記録する功名帳の第一番目にその名が記された。
 いよいよ源平両軍は、陣を対面させてどっと喚声を上げた。その声は、上は梵天*12までも響き、下は海底の竜神までも驚かせるほどであった。新中納言・知盛卿は船の屋形に立つと、大声で言った。「戦は今日が最後だ。者ども、少しも退こうとは思うな。天竺・震旦*13でも、日本の我が朝でも並ぶ者がない名将・勇士といっても、運命が尽きればどうする事もできない。それでも名を惜しめ。東国の者たちに、弱気を見せるな。今をおいて、命をかける時はない。これが、私の思っている事だ」前に控えていた飛騨三郎左衛門景経*14が「これを心得よ、侍ども」と命令した。上総悪七兵衛が進み出て「坂東武者は、馬の上では偉そうな口を聞きますが、船戦の経験はまったくないでしょう。魚が木に登ったようなものです。一々取り上げて、海に投げ込んでみせます」と言った。越中次郎兵衛は「同じ組み討ちなら、大将軍の源九郎に組み討ちしなされ。九郎は色が白くて背が低く、前歯が特に突き出ている事で分かるだろう。ただ、鎧とその下に着る衣を常に着替えるそうだから、見分けるのは難しいかもしれない」と言った。上総悪七兵衛は「心は猛々しくとも、そのような小柄な若者に何ができるというのか。片脇に挟んで、海へ投げ入れてやる」と言った。
 知盛卿はこの後、大臣・宗盛公の前へ行って「今日は侍たちも士気が盛んに見えます。ただし阿波民部重能は心変わりしたようですので、首をはねてください」と言った。これを聞いた宗盛公が「はっきりとした証拠もないのに、どうして首を切る事ができようか。あれほど忠実に仕えていた者であるのに。重能を呼べ」と言うと、黒味を帯びた黄赤色の布で仕立てられた衣に、白いなめし革で綴った鎧を着て、阿波民部重能が現れた。かしこまる重能に宗盛公が「どうした、重能は心変わりしたのか。今日に限って調子が悪いように見えるぞ。四国の者たちに戦をするようにと命じなかったのか。気後れしたのだな」と言うと、「どうして気後れするというのでしょう」と言い残して、その場を去った。知盛卿は「よし、あいつの首を討ち落としてやる」と思い、太刀の柄をしっかり握って、宗盛公の方をしきりに見ていたが、許しがなかったので、どうする事もできなかった。
 平家は千艘を三手に分けた。山鹿の兵藤次秀遠*15は五百艘で先陣として漕ぎ出した。松浦党が三百艘で、後を追う。平家の君達は二百艘で続いた。兵藤次秀遠は九州一の強い弓を引く射手であったので、自分ほどではないが世間並みの弓を引く射手、五百人を選りすぐって、それぞれの船の前と後に立て、それらを横に並べて、五百の矢を一度に放った。源氏の船は三千艘であるので、軍勢の数は多かったが、あちこちから射掛けたので、どこに射手がいるのかもわからない状況だった。大将軍の義経は真っ先に進み出て戦ったが、楯でも鎧でも防ぎきれず、散々に射立てられた。平家は味方が勝ったと、しきりに攻撃の合図の鼓を打っては、喜びの喚声を上げた。






*画像の鳥は、Great Egret(ダイサギ)です

*1:とりあわせ だんのうらかっせん

*2:山口県下関市彦島

*3:下関市長府の満珠島

*4:たんぞう:妹が平忠度に嫁いでいた

*5:いまぐまの

*6:熊野三山の本宮・十二所権現の一つ

*7:真言宗護法神で、熊野三山の守護神の一つとされた

*8:下関市壇之浦

*9:現福岡県北九州市門司区

*10:下関市南部

*11:一町は約109メートル

*12:三界の一つである色界十八天の中の初禅天

*13:インド・中国

*14:かげつね:藤原氏で、平宗盛の乳母の子

*15:ひでとお:筑前国遠賀郡山鹿の住人