平家物語を読む195

紅葉

灌頂巻 六道*1之沙汰*2

 「世を捨てた身の常で、何の差支えがあるというのでしょう。すぐにお会いして、お帰りいただくようになさいませ」阿波の内侍がこう言ったので、建礼門院は庵室に入られた。「念仏を一回唱えては、窓の前に仏のお迎えの光が射す事を期待し、十回唱えては、この柴の庵の戸口に諸仏が迎えに来てくださるのを待っていたというのに、まさか法皇がいらっしゃるとは思ってもみませんでした」と、泣く泣く対面したのだった。
 後白河法皇は、建礼門院のこの様子をご覧になって、「非想非々想天*3では八万劫の寿命が保たれるというが、それでもなお最後には死を免れる事はできない。欲界の中では六欲天*4における寿命が最も長いが、それでもなお死を免れる事はできず、五衰*5の悲しみを味わわなければならない。善見城*6での長い寿命も、中間禅*7の主である大梵天が住む高台の閣もまた、夢の裏の果報、幻の間の楽しみなのだ。三界にある者は生まれ変わり、まるで車輪が回るように、迷いの世界を巡り続ける。天人の五衰の悲しみは、人間にも起こる事なのか」とおっしゃった。「ところで、誰かお見舞いに来る事はありますか。何事につけても、昔を思い出されてしまう事でしょう」と法皇がおっしゃると、建礼門院は「どちらからも訪問はありません。隆房・信隆の北の方より、時たま便りをもらう事があります。その昔、あの人たちの世話を受けようとは少しも思いませんでした」と涙を流されたので、そばについていた女房たちも皆が袖を涙で濡らした。建礼門院が涙を押さえて、「このような身になった事は、一時的には嘆かわしい事であるのは言うまでもありませんが、死後に極楽往生するためには、返って喜ばしい事と思っています。たちまちに釈迦の死後の弟子に名を連ね、恐れ多くも阿弥陀仏誓願に乗じて、五障*8・三従*9の苦しみを逃れるよう、昼夜三時に六根*10を清め、ただ一心に極楽浄土へ迎え入れられる事を願っています。もっぱら平家一門の死後の冥福を祈り、常に三尊*11の来迎を待っています。いつの世までも忘れがたいのは安徳天皇の面影です。忘れようとしても忘れられず、偲ぼうとしても偲ぶ事ができません。親子の深い情愛ほど悲しいものはありません。よって、安徳天皇が成仏するようにと、朝夕の務めを怠る事はありません。この我が子への情愛も、私を仏道へ導くよい機縁と思われます」とおっしゃると、法皇は「この国は、粟粒を撒き散らしたような辺境の小国であるとはいえ、ありがたい事には前世で十の善行を修めた功徳により、あなたは皇妃の身に生まれました。その分に応じて、心に叶わない事はないでしょう。とりわけ、仏法が流布している世に生まれて、仏道修行しようという志しがあるのですから、後世で浄土に生まれる事は間違いありません。人間がはかないのは世の常ですから、今更驚く事ではありませんが、あなたのご様子を見ていると、どうにもやりきれない思いです」とおっしゃった。建礼門院は続けて話し始められた。「私は平清盛の娘として、天皇の母となりましたので、日本全土が皆、思うままでした。元旦の拝賀の儀式に始まり、季節毎に行われる衣替え、十二月に行われる仏名会などで、摂政以下の大臣・公卿にもてなされた様子は、六欲天・四禅天の雲の上にて多くの仏たちに取り囲まれたかのようで、逆らう者は決していませんでした。清涼殿・紫宸殿では、玉のように美しい簾の内で過ごし、春は紫宸殿の桜に心をとめて日を暮らし、夏の暑い日は泉の水を手にすくって心を慰め、秋は雲の上の月を独りで見るような事はなく、雪の降る寒い冬の夜は衣を重ねて温かく過ごしました。長生不老の術を授かる事を願い、蓬莱の島にあるという不死の薬を求め、ただ長生きする事ばかりを思っていました。明けても暮れても富み栄えており、前世の業因によって天上界に生まれるという果報を受けたとしても、これには勝らないだろうと思っていました。そうであるのに、寿永二年の秋の始め、木曾義仲とかいう者を恐れて、平家一門の人々は住み慣れた都を出ました。雲のかなたに故郷を振り返り、福原の旧都が焼け野原になるのを眺め、以前はその名を聞くばかりだった須磨から明石の浦を伝って進むうちに、さすがに悲しみを感じました。昼は果てしない波路を進みながら袖を涙で濡らし、夜は洲の千鳥と共に泣き明かしました。浦から浦へ、島から島へと進みながら、時に由緒ある所を見る事もありましたが、故郷の事を忘れはしませんでした。こうして頼る所がないという事は、まるで天人が死ぬ時に五衰を現すという悲しみのようです。人間界の事は、愛別離苦・怨憎会苦*12共に身にしみて分かっています。四苦*13・八苦*14、一つとして経験していないものはありません。その後、筑前国太宰府という所で、惟義*15とかいう者に九州からも追い出され、山野は広いといっても、立ち止まって休む所もありませんでした。そのうち秋も末になり、昔は皇居で見た月を、果てしなく広がる海の上で眺めながら日々を過ごしました。十月の頃、少将・清経*16が『都は源氏のために攻め落とされ、九州は惟義のために追い出された。網にかかった魚のようだ。どこへ行けば逃れられるというのだろう。生き永らえるべき身ではない』と、海に沈まれたのが辛い事の始まりでした。波の上で日中を過ごし、船の中で夜を明かし、貢納品もなかったので、食事を調える人もいませんでした。たまに食事を調えようとしても、水がないのでどうする事もできません。大海に浮かんでいるといっても、潮水であるので飲む事はできないのです。これはまるで、餓鬼道*17の苦のように思われました。その後、室山・水島などの戦いに勝ったので、人々は少し生気を取り戻したように見えましたが、一の谷という所で一門が多く滅びて後は、直衣・束帯と引き換えに、鉄を伸ばして作った鎧を身にまとい、明けても暮れても、戦で発せられる喚声が絶える事はありませんでした。恐らく修羅*18の闘争、帝釈天の争いもこのような様子である事でしょう。一の谷を攻め落とされて後、親は子に先立たれ、妻は夫に死に別れ、沖の釣り船さえも敵の舟かと肝を冷やし、遠い松に群れる鷺を見ると、源氏の白旗かと気をもみました。そうしているうちに門司・赤間の関にて、戦はこれが最後と思われた時、二位の尼が言い残した事があります。『男が生き残る事は、万に一つもあり得ないであろう。たとえ遠縁の者がまれに生き残ったとしても、私たちの後世を弔ってもらう事は期待できない。昔から、女は殺さぬ習いであるから、あなたは何としてでも生き永らえて、安徳天皇の後世を弔って差し上げ、私たちの後世も祈ってほしい』このように訴えたのを、夢心地で聞いていると、風が急に吹き、雲が厚くたなびいて、兵士たちの心を惑わしました。天運が尽きたのです。人の力ではどうする事もできない事でした。もはやこれまでと思われた時、二位の尼安徳天皇を抱いて船端へ歩み出ました。あきれたご様子で『尼御前、私をどこへ連れて行こうとするのか」とおっしゃるので、二位の尼はこのあどけない君主に向かって、涙をこらえ口を開きました。『君主はまだご存知ではありませんか。前世で十の善行を修められた功徳により、今は天子としてお生まれになりましたが、悪縁に影響されて、その御運は既に尽きようとしているのです。まず東に向かって伊勢大神宮にお暇を申され、その後、西方の極楽浄土からのお迎えに預かれますよう、西に向かって念仏をお唱えください。この国は辛く苦しい境涯でありますので、極楽浄土という、めでたい所へお連れするのですよ』これをお聞きになった安徳天皇は、山鳩色の衣を身にまとい、髪を左右に分けて束ねられました。涙でお顔を濡らし、小さな美しい手を合わせると、まず東を拝み、伊勢大神宮にお暇を申され、その後は西に向かって念仏を唱えられたのです。よって二位の尼はすぐに安徳天皇を抱き上げ、『波の下にも都がありますよ』とお慰めすると、深い海の底へと入りました。海に沈んだ安徳天皇のお姿を思うと、目の前が真っ暗になり心も消え果てて、忘れようとしても忘れられず、偲ぼうとしても偲ぶ事ができません。残された人々のうめき叫ぶ声はすさまじく、叫喚・大叫喚*19の炎の底の罪人も、これほどではないだろうと思われました。その後、武士に捕らわれ、都へ向かう途中、播磨国の明石浦で、ほんの少しまどろんだ時に夢を見ました。昔の内裏よりはるかに見事な所に、安徳天皇を始めとして平家一門の公卿・殿上人がすべて立派な威厳のある様子でいるのです。都を出て後、このような所はいまだ見た事はないので、『ここはどこですか』と尋ねると、二位の尼と思いましたが『竜宮城です』と答えました。『めでたい所ですね。ここには苦しみはないのですか』と尋ねたところ、『竜畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってくださいませ』と言ったところで目が覚めました。その後はますます経を読み、念仏を唱えて、安徳天皇の菩提を弔いました。これらはすべて、六道の相そのままだと思われるのです」これをお聞きになった法皇が「異国の玄奘三蔵は、悟りを開く前に六道を見、我が朝の日蔵上人*20は、蔵王権現*21の力にて、六道を見たと聞いています。あなたがこれほど六道を目の当たりにご覧になったのは、誠に珍しい事です」と涙を流されたので、お供の公卿・殿上人も皆が涙で袖を濡らした。建礼門院も涙を流されたので、そばについていた女房たちも皆が袖を涙で濡らした。

*1:地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道

*2:ろくどうのさた

*3:ひそうひひそうてん:三界の最上にある無色界の四天の一つ

*4:三界の最下にある欲界のうちの最上部

*5:天人が死ぬ際に現れるという五つの衰相(衣装が垢にまみれる・頭上の花がしぼむ・身体が悪臭を放つ・腋下から汗が流れる・その座にいる事に楽しみを感じなくなる)

*6:ぜんけんじょう:喜見城ともいい、須弥山の頂上のとう利天(六欲天の第二)にある帝釈天の宮殿

*7:ちゅうげんぜん:色界の四禅天のうち、初禅天と二禅天との間にある世界

*8:仏教で、女性が持つといわれる五つの障害

*9:儒教で、女性が守るべき道

*10:人間の迷いを生ずる原因となる五つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・身・心)

*11:阿弥陀如来と、脇侍の観音菩薩勢至菩薩

*12:あいべつりく・おんぞうえく:愛する者と別れなければならない苦しみ・憎む者と出会わなければならない苦しみ

*13:生・老・病・死

*14:四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えたもの

*15:これよし

*16:きよつね:重盛の三男

*17:三悪道の一つ

*18:六道の一つ

*19:八大地獄の第四が叫喚地獄で、第五が大叫喚地獄

*20:にちぞう:淡路守・三善氏吉の子

*21:吉野の金峰山蔵王堂に本尊として祭られる金剛蔵王菩薩