平家物語を読む181

巻第十二 大地震

 平家はすべて滅び、西国も鎮まった。国は国司に従い、庄園はその領主の思うままになった。身分の高い人も低い人も皆が安堵を覚え始めた頃の七月九日正午、大地がひどく揺れ、それは長く続いた。都では、白河のほとり*1の六つの御願寺*2がすべて崩れた。法勝寺の八角九重の大塔も、上の六重が振り落とされた。得長寿院*3も、三十三間の御堂のうち十七間までが振り倒された。皇居を始めとして、人々の家、あちらこちらの神社・仏閣、身分の低い者の暮す家も、すっかり押し潰された。崩れる音は雷鳴のようで、巻き上がる塵は煙のようである。空は暗くなり、太陽の光も見る事ができない。老いも若きも皆が肝をつぶし、朝廷に仕える人も民衆もことごとくが神経をすり減らした。また、遠国・近国も同様であった。大地が裂けて水が湧き出で、岩は割れて谷へ転がり落ちた。山は崩れて川を埋め、海はあふれて浜を沈めた。渚を行く船は波に揺られ、陸を駆ける馬は足場を定めかねた。津波が襲ってきたら、丘に登ったとしてもどうして助かる事があるだろうか。激しい炎が追いかけてきたら、川を隔てていたとしても避ける事などできない。まったく大地震は恐ろしい限りである。鳥ではないので、空を飛ぶ事はできず、竜ではないので、雲に上がる事もできない。白河も六波羅も都はすべてが家屋などの下敷きになり、死んだ者の数はいくらに及ぶかも分からない。四大種*4の中で、水・火・風は常に害をなすが、大地に至っては異変をなす事はなかった。これはどういう事かと、身分の高い人も低い人も引き戸・襖を閉め、天がうなり大地が揺れる度に、今にも死ぬぞと、口々に念仏を唱えている。人々のうめき叫ぶ声が響き渡った。八、九十の経験豊かな者たちも「この世が滅びるなどという事は、さすがに今日明日に差し迫った事とは思わなかった」と、非常に驚き騒いだので、これを聞いた幼い者たちも泣き悲しむばかりである。後白河法皇は折しも、新熊野神社*5を参詣されていたが、地震によりたくさんの人が死んだため、神事を遠慮し、急ぎ御所である六条殿へ戻られた。途中、法皇も臣下の人々も、どれほど心を痛めた事であろう。後鳥羽天皇は御輿にて、池のそばへ避難されていた。法皇は南庭に、仮の屋舎を建てられた。御所はすべて崩れてしまったので、后や皇子たちは、御輿や御車に避難されている。天文博士たちが急ぎ駆けつけて「今夜の十時から十二時頃に、大地は必ずや再び揺れるでしょう」と言うから、恐ろしいなどというものではない。
 昔、文徳天皇*6の治世である斉衡二年五月二十三日の大地震では、東大寺の仏の首が振り落とされたとも聞く。また、天慶元年四月五日の大地震では、天皇は御所を出られて、常寧殿*7の前に建てた五丈の仮の屋舎に入られたと聞く。しかしこれらは上代の事であるので、取り立てて問題にするまでもない。今度の事は、これより後に同じような事が起こらないとも言い切れない。安徳天皇は都を出られ、御身を海底に沈められた。大臣・公卿は大路を引き回され、その首を獄門に掛けられた。昔から今に至るまで、怨霊は恐ろしいものであるので、この世は一体どうなるのだろうと、情けの分かる人で嘆き悲しまない人はいなかった。

*1:鴨川の東岸地域

*2:六つすべてに「勝」の字が付いている

*3:とくじょうじゅいん:鳥羽上皇御願寺で、平忠盛が建立に尽力した

*4:仏教で、宇宙を構成する地・水・火・風の四つの元素

*5:いまぐまの:熊野権現を勧請したもので、現京都市東山区にある

*6:第55代天皇

*7:じょうねいでん