平家物語を読む95

Downy Woodpecker

巻第六 嗄声*1

 一方、越後国の住人・城太郎助長は、越後守に任じられた恩に報いようと、木曾を追討する事にした。六月十五日に総勢三万騎以上で出発し、翌十六日の午前六時頃に敵を攻める予定である。が、十五日の夜中に突然、強い風が吹き大雨が降り、雷が激しく鳴った。雨が上がった後、空から大きなしゃがれ声がした。「人間界の金銅十六尺の大仏を焼き滅ぼした平家に味方する者がここにいる。討ち取ってしまえ」三度こう叫ぶと、声の主は過ぎ去った。助長を始めとして、この声を聞いた者は皆、身の毛がよだった。従者たちは「これほど恐ろしい天のお告げがあったのなら、どうか道理を曲げて思いとどまってください」と言ったが、助長は「武士というものが、そのようではいけない」と、翌十六日午前六時頃に、城を発った。わずか十町ほど*2進んだ時、一かたまりの黒雲が立ち上がり、助長の上を覆ったかと思うと、助長は急に身体がすくみ意識が朦朧として、落馬した。輿に乗せられ館へ戻ったが、伏したまま六時間ほどして終に死んでしまった。飛脚によってこの事を伝えられた平家の人々は、大騒ぎになった。
 七月十四日、改元があり年号が養和となった。その日、筑後守・平貞能*3が、筑前・肥後の両国を与えられて、九州の謀反を平定するために西国へと出発した。また、同日に臨時の大赦が行われて、治承三年に流罪となった人々が皆、連れ戻された。前関白・藤原基房殿は備前国から、前太政大臣藤原師長殿は尾張国、大納言・源資賢卿は信濃国から、それぞれ都へ戻ったと聞く。
 七月二十八日、師長殿が後白河法皇を訪問した。長寛に都へ戻った時*4には、殿の縁で賀王恩・還城楽*5を琵琶で演奏したが、今回の帰京の際は、法皇の御所で秋風楽*6を奏でた。どの場合も、曲の風情と演奏する時季とを考慮していたのだろう、その心遣いは見事なものであった。資賢卿もその日、法皇の御所を訪ねた。後白河法皇が「何とも夢のように思えることよ。慣れない辺鄙な場所で暮らし、詠曲なども今では跡形もなく忘れてしまったと思っていた。流行の歌謡を一つ聞かせてくれ」とおっしゃると、資賢卿は拍子を取りながら歌い始めた。「信濃にあるという木曽川*7」という当世風の歌を、実際に見てきた場所であるので、「信濃にあった木曽川」と換えて歌ったのは、時季を考慮した見事な手柄であった。

*1:しわがれごえ

*2:約109メートル

*3:さだよし

*4:保元の乱を起こした父・頼長の罪に連座して流罪となっていたが、長寛に召還された

*5:雅楽の曲名

*6:雅楽の曲名

*7:信濃にあんなる木曽路川、君に思ひの深ければ、みぎはに袖をぬらしつつ、あらぬ瀬をこそすすぎつれ」