平家物語を読む94

巻第六 祗園女御

 またある人は、清盛は忠盛の子ではなく、本当は白河院の皇子であると言った。永久の頃*1、祗園女御と呼ばれる白河院お気に入りの女性がいた。東山のふもとにあったその住まい、祗園感神院*2に、白河院は足繁く通われていた。ある日、殿上人二人、北面の武士数人をお供に、やはり祗園女御のところへ向かおうとされていた時、時季は五月二十日頃のまだ日が暮れて間もない時であったので、辺りはすっかり暗闇で、おまけに一面に五月雨が降り、本当にうっとうしく不気味であった。祗園女御の宿所の近くには御堂がある。その御堂の付近から、光を放つものが現れた。頭は白金の針が磨いたかのように輝き、掲げた左右の手と思われるものの片手には槌のようなもの、もう片手には何か光るものを持っている。白河院も臣下の者たちも「何と恐ろしい、これは本物の鬼であろう。手に持っているものは、有名な打出の小槌ではないか。どうしたものか」と大騒ぎになった。その頃はまだ北面の武士の中でも地位が低かった忠盛が呼ばれて、「この中ではお前が適任であろう。あの者を射殺すか、切ってしとめるかできるだろうか」と命じられたので、忠盛は承知して前へ進んだ。心の中では「この者は大して強い者には見えない。狐や狸ではないだろうか。そんなものを射殺したり切り殺したりしては、ひどく後悔する事になる。生け捕りにしよう」と思いながら進んだ。光はしばらくするとぱっと光り、またしばらくするとぱっと光る。二、三度そのように光っているところに、忠盛は近付くとむんずと押さえ込んだ。相手は「これはどうした事か」と騒ぐ。妖怪などの類ではなく、実は人間であった。皆が手に手に灯りを持ってよく見てみると、六十歳ほどの法師である。御堂の雑用を勤める僧が、灯明をともそうと、取っ手のついた瓶に油を入れて持ち、もう片方の手には火をともした素焼きの陶器を持っていたのであった。雨がざあざあと降り注ぐので、濡れまいとして頭には端を縛って笠のようにした小麦の藁束をかぶっている。素焼きの陶器の火が、この小麦の藁を照らし、まるで銀の針のように見せたのであった。事の実情がすっかり判明した。白河院は「これを射殺すなり切り殺すなりしていたなら、どれほど後悔したであろう。忠盛の振る舞いはまことに思慮深いものであった。武士として感心なことだ」と、その褒美としてあれほど寵愛されていると評判だった祗園女御を、忠盛に与えられた。
 実は、この祗園女御は既に白河院の御子を身ごもっており、白河院は「生れてくる子が女子ならば私の子にしよう。男子ならば忠盛の子にして、武士として育て上げなさい」とおっしゃった。生まれたのは男であった。忠盛はその事をご報告しようとしたが、適当な機会がない。ある時、白河院が熊野へ参詣なされる途中、紀伊国の糸我山という所で、御輿を止められてしばし休憩なされる事があった。忠盛は薮の中に山芋のむかごがたくさんあるのを見つけて、それを袖にたっぷりと入れて白河院の前へと向かい、
 いもが子ははふ程にこそなりにけれ*3
と伝えると、白河院はすぐに気付かれて、
 たゞもりとりてやしなひにせよ*4
と返された。よってこの時から、忠盛はこの子を我が子として育てるようになった。この若君が余りに夜泣きが多いという事を耳にされた白河院は、一首の歌を贈ってくださった。
 夜なきすとたゞもりたてよ末の代にきよくさかふることもこそあれ*5
これによって、その子は「清盛」と名付けられる事になった。十二歳で兵衛佐になり、十八歳で四位に叙せられ、四位の兵衛佐になった。事情を知らない人が「清華家*6の人であっても、ここまでは」と言うと、事情をご存知であった鳥羽院は「清盛の血筋は清華家の人には劣るまい」とおっしゃった。
 昔も、天智天皇*7が御子を身ごもった女御を、「この女御が産んだ子が女子ならば私の子にしよう、男子ならばお前の子にしなさい」とおっしゃって藤原鎌足に与えたという事があった。産まれたのは男で、これが妙楽寺*8を建立した定恵和尚である。過去にもこのような例があったので、末代の清盛公も本当に白河院の御子で、だからこそ遷都などという、あれほどの大事を思い立ったのではないかと言われていた。
 閏二月二十日、大納言・藤原邦綱*9卿が亡くなられた。清盛公と親交も深く、友情までもあるような間柄であった。よほど縁が深かったからであろうか、清盛公と同日に発病して、同月に亡くなった。
 この邦綱卿というのは、中納言藤原兼輔*10から八代の子孫である前右馬助・盛国の子である。蔵人にすらなれずに、大学寮の文章生で蔵人所の下級職員として仕えていたが、近衛天皇*11の治世である仁平*12の頃、内裏に急に火事が起こった。その時、紫宸殿にいらっしゃった天皇は、警護に当たる近衛府の役人が一人もやって来ないので、途方に暮れておられた。そこへ邦綱が手輿を持って駆けつけ、「このような時はこの御輿にお乗りください」と伝えたところ、天皇はこれに乗られて危険から逃れる事ができた。「何者だ」と尋ねられ、邦綱は「大学寮の文章生で蔵人所の下級職員の、邦綱と申します」と答えた。「よく機転がきく者だ。呼び寄せて、召し使おう」と、天皇は当時の関白・藤原忠通殿へ相談された。邦綱は領地などたくさん与えられた上で、宮仕えする身となった。ある時、天皇石清水八幡宮へ外出なされた際、神楽の舞人の長が酒に酔って水に倒れ、その装束を濡らしたため、御神楽が遅れるという事があった。邦綱は「立派ではありませんが、神楽舞人の装束を用意しております」と、上下一揃いの装束を取り出し、それを与えたため御神楽は無事に行われる事ができた。時間は少し遅れたけれども、歌の声も澄んでいて、舞の袖も拍子にあっており、興味をそそられた。神楽がしみじみと興味を引くというのは、神も人も同じである。昔、天岩戸を開いたという神代の故事をも、人々は思い知ったのであった。
 他ならぬこの邦綱の先祖に、中納言・藤原山陰*13という人がいた。その子は如無僧都*14といって、知恵にあふれ学識も深く、常に清浄の修行をし、戒律を保つ僧であった。醍醐天皇の治世*15宇多法皇が大井川外出なされた際、内大臣藤原高藤公の子である中納言・定国が、小倉山の嵐に烏帽子を川へ飛ばされ、袖で頭を隠して困っていたところ、この如無僧都が袈裟を入れる箱から烏帽子を一つ取り出して渡したという。この如無僧都は、父の中納言・山陰が大宰府の次官になって、九州へと向う時、継母によって殺されそうになった。継母は抱き上げるように見せかけて二歳だった如無僧都を海に落としたが、如無僧都は浮かび上がってきた亀の甲羅に乗って助かったのである。これは、産みの母がまだ生きていた時、桂川流域に住む鵜飼いが、鵜のえさにしようとして亀を取って殺そうとしたところ、如無僧都が着ていた下着を脱いで亀と入れ替え、亀を放した事があり、その亀の恩返しであった。これはかなり昔の事であるのでそういう事もあるかもしれないが、末代の邦綱卿のような手柄はめったにない事である。藤原忠通殿が関白の頃に邦綱卿は中納言になった。関白殿が亡くなって後は、清盛公が「話したい事がある」と近付き、それ以来、親交が深まった。大金持ちであったので、毎日何か必ず一つを、清盛公のもとへ贈っていた。「現世での親友に、この人以上の人はいない」と、清盛公は邦綱の子を養子にして清国を名付け、また四男の頭中将・重衡は邦綱の婿となった。治承四年の五節は福原で行われたが、殿上人が中宮の部屋の前を通過した時、ある人が「竹湘浦に斑なり*16と朗詠を歌ったところ、立ち聞きしていた邦綱は「あきれた事だ、これは縁起が悪い文句ではないだろうか。このような事は聞いても聞かなかった事にしよう」と、こっそりその場から立ち去ったという。この朗詠の意味を詳しく説明する。尭*17には二人の姫君がいた。姉は娥黄*18、妹は女英*19という。共に、尭から帝位を譲られた舜の后であった。舜が亡くなり、蒼梧の野*20へ葬送され煙となった時、二人の后は名残惜しみ、嘆き悲しみながら湘浦という所まで行った。その時流した涙が岸の竹にかかって斑に見えたという。その後も度々そこを訪れ、琴を弾いて心を慰めた。今、その場所を見ると、岸には斑の竹が立っている。琴を弾いていた所は、雲がたなびきしみじみとした感興を誘う。その心を橘広相公が詩にしたのである。邦綱はそれほど文才があり詩歌にすぐれているという訳ではなかったが、機転がよくきく人であったので、このような事までも気にされたのであろう。邦綱にとって大納言の位などは思ってもみない事であったのだが、邦綱の母は賀茂大明神に足を運び、「どうか我が子・邦綱を、一日でも結構ですから、蔵人頭にしてください」と百日間、心を込めて祈願を行った。ある夜、皇族や公卿たちが乗るような車が家の前に止まるという夢を見た母が、これを人に話したところ、「それは公卿の北の方になられるという意味でしょう」言われた。その時は「私はもう高齢です。今更、そのような事があるとは思えません」と言ったが、子の邦綱が蔵人頭どころか、正二位大納言にまで上がったのは素晴らしい事であった。
 閏二月二十二日、後白河法皇は御所の一つ、法住寺殿へと向われた。法住寺殿は応保三年四月十五日に着工し、新日吉神社・新熊野神社なども鎮守として祭られ、山水・木立に至るまで、法皇の意のままに作られたが、この二、三年は平家の悪行によってご訪問もままならなかった。破壊した所を修理してからと、宗盛卿は伝えたが、法皇は「何の準備も必要ではない。今すぐに」とおっしゃって、すぐに向われた。まず故建春門院が住まわれていた御殿をご覧になった。岸の松・水際の柳は少し大きくなっており、年を経たなと思われ、池の蓮・未央柳*21を前にしては、どうしようもなく涙を流された*22。あの西宮南苑の昔の跡*23も、今こそ理解なされたのである。
 三月一日、奈良の東大寺興福寺の僧綱*24たちは元の官職に復帰し、末寺・庄園を元の通りに治めるようにとの命が下された。三月三日に、大仏殿の再建が始まった。この起工の責任者は、蔵人左少弁・藤原行隆だと聞く。行隆は昨年、石清水八幡宮に参詣し終夜祈願を行った時、正殿の中から髪を左右に結った童子が現れ、「私は大菩薩の使いである。大仏殿の再建を執り行う時は、これを持っていきなさい」と、束帯着用の時に右手に持つ細長い板片を与えられるという夢を見て、目が覚めて見ると実際にその板片があったという事があった。「何と不思議な事だろう、いったい何の必要があって大仏殿に関わる仕事に携わる事になるというのか」と、その板片を懐に入れて宿所へ帰り、奥に片付けておいた。が、平家の悪行によって東大寺が燃えると、行隆は弁官の中から選ばれて、起工を執り行う事になったというから、そのように運命づけられた宿縁とは素晴らしい事であった。
 三月十日、都へ馬を急がせてやって来た美濃国国司代官が「東国の源氏たちは、既に尾張国まで攻め上り、道をふさいで人を通しません」と伝えるので、すぐに討手を行かせた。左兵衛督・知盛*25、左中将・清経、少将・有盛*26を大将軍に、総勢三万騎ほどが都を出発した。清盛公が亡くなってから、まだ四十九日にもならないというのに、いくら乱れた世だからといって、嘆かわしい事である。源氏側は、十郎蔵人・行家、頼朝の弟の卿公義円*27を大将軍に、総勢六千騎ほどである。木曽川を中に隔てて、源平両氏は陣を構えた。
 三月十六日の夜中、源氏の六千騎は川を渡り、三万騎いる平家の中へ叫びながら突入した。翌十七日の午前四時頃に合戦開始の合図である矢合わせを行い、夜が明けるまで戦い続けたが、平家側は少しも慌てない。「敵は川を渡っているので、馬も馬具も皆濡れている。それを目掛けて討て」と、大勢で取り囲み「取り逃がすな、討ちもらすな」と攻め立てたので、源氏側はほとんどが討たれ、大将軍の行家は何とか命をつないで、川から東へと退散した。卿公義円は、攻め込んだために討たれた。平家側はすぐに川を渡り、源氏の兵士を見つけては追いかけて射る。源氏側はあそこここで、引き返しては戦い続けたが、敵は大勢で味方は無勢である。敵うようには見えなかった。「兵法では湿地帯を背後において戦うなというのに、今度の源氏の計略は考えが足りなかった」と人々は言い合った。
 さて、退散した大将軍の行家は、三河国に向かい、矢矧川*28の橋げたをはずして、盾を垣根のように立て並べて待ち伏せていた。やがて平家側が攻め寄せると、こらえきれずにそこもまた、攻め落とされた。平家側はそのまますぐに攻め続けたので、三河遠江の軍勢は平家に従うように見えたが、大将軍の知盛が病になり、三河国から都へと引き返す運びとなった。今回は、敵の第一陣を打ち破ったが、残りの者たちを攻められなかったので、たいした成果はなかったようだ。平家は一昨年、重盛公が亡くなられ、今年、清盛公が亡くなっている。平家の運命が尽きる前兆であると、年来、恩を受けている人々以外、平家に従いつく人はいなかった。東国では、草木までも、すべてが源氏に従いついていた。

*1:1113〜18年

*2:京都市東山区にある八坂神社の旧称

*3:やまいもの子が地を這うほどたくさんなっております」→祗園女御の生んだ子が這うほどに成長しました

*4:「ただそのまま盛り取って栄養にしなさい」→忠盛がそのまま引き取って養育してくれ

*5:夜泣きをしても、忠盛よ大事に育ててくれ、将来立派に成長してお前の一家を清く盛えさせる事もあるかもしれないから

*6:摂家に次ぐもので、大臣・大将を兼ねて太政大臣にまでなることのできる家柄

*7:第38代天皇

*8:奈良県桜井市多武峰にあった

*9:くにつな

*10:かねすけ

*11:第76代天皇

*12:1151〜54年

*13:やまかげ:魚名の子孫で、実際には邦綱の先祖ではない

*14:じょむ

*15:898〜901年

*16:和漢朗詠集・雲・張読による」

*17:古代中国の名君

*18:がこう

*19:じょえい

*20:そうご:中国広西省梧州府蒼梧県付近の地

*21:びようやなぎ

*22:「白氏文集十二・長恨歌」より

*23:長恨歌」による

*24:そうごう:僧正・僧都など、僧を統率する官職

*25:とももり:清盛の四男

*26:清経・有盛は重盛の子

*27:きょうのきみぎえん

*28:やはぎ:木曾の山間に源があり、愛知県中部を流れ知多湾に注ぐ川