平家物語を読む56

巻第四 還御

 治承四年三月二十六日、高倉上皇厳島へ到着なされた。清盛公の最愛の内侍の宿所が仮の御所となった。滞在された二日の間、経文の書写や舞楽が行われた。中心となった僧は三井寺の公顕僧正と聞く。高座に上がって鐘を打ち鳴らし、始めに「皇居のある都を出て、はるばる波路を渡っていらっしゃったお志の何とありがたいことか」と声高らかに述べると、高倉上皇も臣下の者たちも感激して涙を流した。厳島明神の本社・大宮、摂社・客人から始まり、すべての社へ、高倉上皇は足を運ばれた。大宮から五町ほど山へ向かって、滝の宮*1へも参詣なされた。公顕僧正はそこで歌を一首詠み、それを拝殿の柱に書いた。
   雲井よりおちくる滝のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき*2
厳島明神の神主・佐伯の景広*3は位が従五位上に、国司・藤原有綱は従四位下に上げられて、高倉上皇の御所の殿上の間での奉仕を許された。座主・尊永は僧位の第一等である法印になった。神の御心も動き、清盛公の心も動いたように思われる。
 三月二十九日、高倉上皇は船で帰られることとなった。風が強く、船は戻され、厳島の有の浜*4にとどまられた。上皇に「大明神を名残惜しんで、歌を詠みなさい」と命じられ、少将・隆房が詠んだ歌がある。
   たちかえるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくるしら浪*5
夜半頃から波も収まり、風も静まったので、船は出発した。その日は備後国の敷名の泊*6に着いた。この辺りには、以前、後白河法皇がいらっしゃった時に国司・藤原為成が作った御所があり、清盛公はそこを高倉上皇のご休憩所として準備していたが、上皇は上がられなかった。「今日は四月一日、衣替えの日であるな」と、それぞれが都の様子に思いを馳せ、酒宴や奏楽などに興じていると、岸に深い色の藤の花が松の上で咲いているのをご覧になった上皇が、大納言・隆季を呼び、「あの花を取ってきなさい」を命じられた。中原康定が小船に乗って上皇の前を通り、藤の花を取りに行った。藤の花を松の枝と共に持ってきたのをご覧になって上皇は「気がきいている」などと感心しておっしゃった。「この花で歌を詠みなさい」と命じられ、隆季は歌を詠んだ。
   千とせへん君がよはひに藤なみの松のえだにもかゝりぬるかな*7
その後、高倉上皇の周りにたくさんの人々が集まり、遊びに興じていると、上皇が「白い衣を着ていた厳島の巫女が、邦綱卿に心を寄せていたな」と笑いながらおっしゃった。大納言・邦綱卿が抗弁していると、そこに侍女がやって来て「大納言殿へ」と言って手紙を渡した。「ほらみたことか」と、皆が面白がった。邦綱が手紙を開くと、
   しらなみの衣の袖をしぼりつゝきみゆゑにこそたちもまはれぬ*8
と書いてあった。高倉上皇は「優美なことであるぞ。返事をした方がいい」と、すぐに硯を用意して下さった。邦綱は、
   おもひやれ君がおもかげたつなみのよせくるたびにぬるゝたもとを*9
と返信した。その後、備前国の児島*10に着いた。
 四月五日、空は晴れ渡り、海も穏やかだったので、上皇の乗られた船を先頭に船を出し、遠くに雲のように見える波や煙のように霞む波をかき分けて進んだ。その日の午後六時頃に、船は播磨国の山田の浦*11に着いた。そこから上皇は御輿で、福原へ向かわれた。四月六日、お供の者たちは、一日でも早く都へとせかしたが、高倉上皇は福原にとどまり、いろいろな所を見て回られた。中納言・頼盛卿の別荘地までもご覧になった。四月七日に福原を出発する時には、命を受けた大納言・隆季により、清盛公の家を仮の御所として提供した事に対する恩賞が与えられた。清盛公の養子である丹波守・藤原清邦は正五位下に、孫である越前の少将・資盛は従四位上になったと聞く。その日は寺江*12に着いた。四月八日、都へ戻られるという事になり、公卿・殿上人たちは鳥羽までお迎えに出た。この時は鳥羽殿へは寄られず、清盛公の西八条の邸へ向かわれた。
 四月二十二日、新帝である安徳天皇即位式が行われた。大極殿で行われる事になっていたが、いつかの火事の後、まだ建て直されてもいない。それならば太政官の正庁で行うのがいいという事になったが、その時になって右大臣・藤原兼実殿が「太政官の正庁は臣下の家に例えると、公文所というような所である。大極殿が不可能な上は、紫震殿で行われるべきだ」と言ったので、即位の式は紫震殿で行われた。「去る康保四年十一月一日に、冷泉院の即位式が紫震殿で行われたのは、冷泉院がご病気で大極殿へいらっしゃる事ができなかったからである。その例に習うのはどうであろうか。後三条院が治暦四年に太政官で即位した例に習って、太政官の正庁で行えばいいものを」と人々は言い合ったが、兼実殿の計らいを変更する訳にもいかなかった。弘徽殿から仁寿殿へ移られた高倉上皇中宮・徳子*13殿が高御座*14にいらっしゃるご様子はすばらしいものであった。平家の人々が皆、仕える中で、故重盛公の公達は喪服を身にまとい、喪に服した。

*1:厳島明神の摂社の一つで、隈岡宮とも言う

*2:空から流れ落ちてくる滝の白糸によって、この滝の宮の神と縁を結ぶことができるのはうれしいことである

*3:さいきのかげひろ:安芸国佐伯軍の伴造の末裔で、代々厳島神主を世襲した

*4:厳島の船着場

*5:都へ帰るには名残惜しくもある有の浦なので、打ち寄せる白波のように神は恵みをかけて下さることだろう

*6:口無の泊の別名

*7:千年もの命を保たれるという上皇のご寿命にあやかって、藤の花が千代を祝うという松の枝に掛かっています

*8:白波のような白い衣の袖を濡らして泣くばかりで、あなたとの別れの悲しさに私は立ち上がって舞うこともできません

*9:どうか思いやってほしい、あなたの面影が目に浮かぶ度に、寄せては返す波に濡れるに袖を涙で濡らしている私のことを

*10:現在の岡山県倉敷市

*11:現神戸市垂水区

*12:大阪市西淀川区

*13:後の建礼門院

*14:たかみくら:即位などの大礼に臨む天皇の御座とされた