平家物語を読む55

氷

巻第四 厳島御行*1

 治承四年の正月になった。清盛公が訪問を許さず、後白河法皇も気兼ねなさっていたので、正月三が日の間、鳥羽殿を訪れる人はいなかった。そんな中でも、故信西の息子である桜町の中納言・藤原成範卿と、その弟の左京大夫・脩範だけは特別に訪問を許された。一月二十日には、三歳になられた皇太子・言仁親王が初めて袴をつける儀式などが行われたが、法皇はその事を鳥羽殿でよそ事のようにお聞きになるばかりだった。
 二月二十一日、別にご病気という訳ではいらっしゃらなかったのに、高倉天皇皇位を皇太子へ譲られた。これは清盛公がいろいろと考えた末にした事であった。平家では、好機が到来したと皆が喜び合った*2皇位の象徴とされる内侍所・神璽・宝剣の三種の神器も、引き渡される事になった。公卿たちが集まる中、儀式は以前の堀河天皇の譲位の時に習って行われた。弁の内侍*3が宝剣を手にとって歩き出し、清涼殿の西の表で、藤原泰通の中将がこれを受け取った。神璽を入れた箱は、備中の内侍*4から、藤原隆房の少将に渡された。三種の神器をお世話するのも今晩限りであろうと思っている内侍たちの心の内は、さぞ感慨深いものだろうと思われた。ところで、この役につくはずだった少納言の内侍*5は、「今夜三種の神器に手を触れると、今後永久に新帝の内侍にはなれない」と人づてに聞いて、この役を辞退していた。「既に年を取りすぎている、再び栄花を期待しても仕方がない」と、人々は説得したが聞く耳を持たず、代わりに十六歳の備中の内侍が、まだ幼い身であるのに志願してこの役についたのは感心な事であった。皇室に代々伝わっている様々な所蔵品を、役人たちがそれぞれ受け取り、五条大路の南にある新帝の御所へ運んだ。高倉天皇の里内裏では、火の影もほとんどなく、時刻を知らせる役人の声もせず、護衛に当たる滝口の武士が出勤を報告する名乗りの声も聞こえない。人々は心細くなり、めでたいお祝いの最中ではあったが、心を痛めて涙を流した。左大臣藤原経宗が前に出て、譲位のことを発表すると、情けのわかる人々は涙を流し、袖を濡らした。皇位を皇太子に譲られ、上皇になられて静かに暮らされるといった今後の事を思っても、気の毒に思えて仕方がない。ましてや、ご意思に反しての譲位であるのだから、その悲しさは言うまでもなかった。
 新帝になられる皇太子は今年三歳、「何と時期の早すぎる譲位であろう」と、当時の人々は言い合った。大納言・平時忠卿は、皇太子の乳母である帥の典侍の夫であったので「今回の譲位が早いと言って、誰を責められようか。異国では周の成王*6が三歳、晋の穆帝*7が二歳の時、我が国では、近衛院が三歳、六条院が二歳の時、皇位につかれている。これらは皆、まだ産着に包まれていて衣服や帯を正しく着る事はできなかったが、摂政がおぶったり、母后が抱いたりして政務に臨んだと聞く。後漢の高上皇帝に至っては、生まれて百日で皇位につかれた。天子が皇位についた先例は、和漢ではこのようである」と言った。これを聞いて、当時宮廷の故実・礼法に詳しい人々は「そのような恐ろしい事を言うとは。そもそも、それらはすべていい例ではないか」とささやき合った。皇太子が皇位につかれたので、清盛公夫妻は共に、母方の祖父母として太皇太后・皇太后・皇后の三后と同じ年給を与えられるという准三后の命を受け、当番として仕える者が与えられた。模様のある衣服を着て飾りをつけた冠をかぶった侍たちが出入りするようになり、二人はまるで院とその后のようになった。出家した後も、清盛公の栄花は尽きないものと見える。出家した人が准三后の命を受けるのは、藤原道長の父である兼家公以来であった。
 同年三月上旬、高倉上皇安芸国厳島へ参詣されるとの噂が流れた。譲位された後の上皇は、まず始めに石清水八幡宮賀茂神社春日大社などへ参詣される事になっていたので、どうして安芸国へと、人々は不審に思った。ある人は「白河院は熊野へ、後白河院日吉神社へ参詣なされた。という事は、厳島への参詣は、先例からではなく高倉上皇のご意思によるものだ。お心の中に深く願われる事があるのだろう。その上、この厳島とは平家が何よりも敬っている所であるから、表面上は平家への同心、内心では鳥羽殿に閉じ込められていらっしゃる後白河法皇に対する清盛公の謀反の気持ちをやわらげる祈願のためであろう」と言ったと聞く。高倉上皇厳島参詣の噂を耳にした比叡山延暦寺の僧たちは憤った。「石清水・賀茂・春日でないのなら、この比叡山山王権現へ参詣なされるべきである。安芸国への参詣とは、一体いつからの慣例なのか。そういう事であるのなら、神輿を都に担ぎ下ろして、厳島への参詣を止めてしまえ」と評議したため、三月十七日に予定されていた参詣は十九日に延期される事となった。清盛公が手立てを尽くした結果、延暦寺の僧たちはようやく鎮まった。
 三月十七日、高倉上皇厳島参詣の門出として、清盛公の西八条の邸へいらっしゃった。その日の夕方に、前右大将・宗盛卿を呼んで「明日の外出のついでに鳥羽殿へ寄って、法皇にお目にかかりたいと思うがどうだろう。清盛に知らせずに行ってはよくないだろうか」とおっしゃった。宗盛卿が涙をはらはらと流して「何のさしつかえがありましょうか」と言うと、上皇は「それならば宗盛よ、その次第を今夜すぐにでも鳥羽殿へ伝えてくれ」とおっしゃった。宗盛卿が急いで鳥羽殿へ向かい、この事を伝えると、後白河法皇は余りに会いたいと思いつめておられたのだろう、「夢だろうか」とおっしゃった。
 三月十九日、大宮大納言・藤原隆季卿はまだ夜が明けきらないうちから、「この間からおっしゃっていた厳島の参詣は、西八条から既に始まっています」と、ご出発を促した。三月も半ばを過ぎて春も終わりに近いのというのに、明け方の月は相変わらずおぼろに霞んでいた。北陸を目指して雲の上を飛んで行く雁の鳴声も、しみじみとした気持ちを心に起こす。まだ夜のうちに、高倉上皇は鳥羽殿へ向かわれた。
 鳥羽殿の門前で車から下りられ、門の中へ入られた。人影はほとんどなく薄暗く、物寂しい様子のお住まいをご覧になって、気の毒にお思いになった。春はもう終わろうとして、木立は夏の佇まいを見せ始めている。梢に咲く花の色は衰え、鶯の声も春とは違って聞こえる。去年の一月六日、儀式のために法住寺殿へ行った時には、笛や太鼓がにぎやかに音を奏で、公卿たちは列になって並んでいた。官人たちが警護に当たる中、係りの公卿が門を開き、道には長い筵が敷かれていた。そうして正式に行われた儀式が、今回は何一つとして行われない。まるで夢を見ているようだと、高倉上皇はお思いになられた。中納言・重教が高倉上皇の到着をそれとなくお知らせしたので、後白河法皇寝殿の奥にある部屋へいらっしゃり、上皇を待っておられた。高倉上皇は今年、二十歳、明け方の月の光に映えて、その身体も非常に美しく輝いていらっしゃった。母である建春門院*8によく似ていらっしゃったので、法皇はまず故女院の事を思い出されて、涙を流された。お二人の席は近くに用意された。その問答は、誰も聞くことができない。紀伊の二位だけがその場にいる事を許された。長い間、お話しをされ、日がずいぶんと高くなった頃、高倉上皇は鳥羽殿を去られ、鳥羽殿の南門近くの船着場から船に乗られた。高倉上皇は古びた奥ゆかしい法皇の御殿を心苦しく思われていたが、後白河法皇上皇の旅の途中の寝所、船の上での事を心配なされていた。祖先を祭る伊勢神宮石清水八幡宮賀茂神社などを差し置いて、はるばる安芸国までいらっしゃるのだから、どうして厳島の明神がその願いを聞き届けない事があろうか。ご祈願の成就は疑いないように思われた。

*1:いつくしまごこう

*2:皇太子・言仁親王は清盛の娘が生んだ

*3:筑前守・高階泰兼の娘

*4:備中守・源季長の娘

*5:兵部卿平信範の孫

*6:武王の子

*7:ぼくてい:康帝の子

*8:平時信の娘・滋子