平家物語を読む57

巻第四 源氏揃*1

 蔵人衛門権佐・藤原定長が、今回の新天皇の即位が秩序正しくとり行われた事を詳細に厚手の紙十枚ほどに書いて、清盛公の北の方である八条の二位殿*2の元へ届けると、北の方は笑顔で喜んだ。このようにめでたい事もあったのだが、世間はいまだ落ち着かなかった。
 当時、後白河法皇の第二の皇子の以仁王*3という方がいらっしゃった。権大納言・藤原季成の娘を母に持ち、また三条の高倉にいらっしゃったので、高倉の宮と呼ばれていた。去る永万一年十二月十六日に十五歳になられ、近衛天皇の皇后の御所で元服の儀式が密かに行われた。筆跡が美しく、学問にも優れていらっしゃったので、皇位を継ぐに値する方であるのに、故建春門院*4のねたみによって辺鄙な所に押し込められていらっしゃった。それでも、花の咲く春には筆を手に取って自作の漢詩を書かれ、月の美しい秋には笛を吹いて自ら優美な音楽を奏でられた。こうして楽しんで暮らされているうちに、治承四年に三十歳になられた。
 その頃、近衛大路の末にいた入道・源頼政が、ある夜、以仁王の御所に忍びやって来て恐ろしい事を伝えた。「以仁王天照大神の四十八世の子孫であり、神武天皇から七十八代に当たります。皇太子に立ち、天皇の位につかれるべきでいらっしゃるのに、三十まで宮でいらっしゃる事を残念な事とは思われませんか。今の世の様子を見ていますと、従いはするものの、内心で平家を恨み憎んでいない者はいません。謀反を起こして平家を滅ぼし、いつまでという限りもなく鳥羽殿に閉じ込められていらっしゃる後白河法皇をご安心させ、以仁王皇位につかれるべきです。これこそが孝行の至りでございます。もしお考えになられた上で命令を下さるのならば、喜んで参加する源氏の者たちはたくさんいます」頼政は続けて言った。「まず京都には出羽前司・光信の息子たちである伊賀守・光基、出羽判官・光長、出羽蔵人・光重、出羽冠者・光能がいます。熊野には故六条判官・為義の十男である義盛*5も隠れています。摂津国には多田蔵人・行綱もいますが、大納言・成親卿の謀反に参加しながらも裏切った者であるので、信用に値しません。とはいえ、その弟の朝実と手島の冠者・高頼、大田の頼基がいます。河内国には武蔵権守・義基、その息子の石河判官代・義兼、そして大和国には宇野の親治の息子たちである有治、清治、成治、義治がいます。近江国には山本の義経、柏木の義兼、錦織の義高が、美濃・尾張国には山田の重広、河辺の重直、泉の重光、浦野の重遠、安食の重頼とその息子の重資、木田の重長、開田の判官代・重国、矢島の帯刀先生・重高とその息子の重行が、甲斐国には逸見の冠者・義清とその息子の清光、武田の信義、加賀美の遠光に長清、一条の忠頼、板垣の兼信、逸見の兵衛・有義、武田の信光、安田の義定が、信濃国には大内の維義、岡田の冠者・親義、平賀の冠者・盛義とその息子の義信、故帯刀先生・義方の次男である木曾の冠者・義仲*6が、伊豆国には流人となった前右兵衛佐・頼朝*7が、常陸国には信太の帯刀先生・義憲*8、佐竹の冠者・正義とその息子の忠義に義宗、高義、義季、陸奥国には故左馬頭・義朝の九男である冠者・義経がいます。これらは皆、六孫王*9源経基の血すじの者たちで、摂津国多田に住む源満仲の子孫であります。国の敵を征し、かねてからの官位昇進の望みを遂げた事に、源氏と平氏に差はなかったのですが、今では身分に雲泥の差があり、それは主従関係よりも大きいほどです。国では国司に従い、庄では年貢などを扱う役人にこき使われて、その辛さに心が休まる事もありません。以仁王が考えられて命令を下さるのならば、夜も眠らずに急ぎ都へ集まり、平家を滅ぼす事を先に延ばすつもりはありません。この私も年は取っていますが、息子たちを引き連れてやって参ります」
 以仁王はどうしたらいいものかと、しばらくの間は承諾しかねていらっしゃった。ここに、大納言・藤原宗通卿の孫で備後国の前司・季通の息子の少納言・維長*10という人相をよく見る人がいた。当時の人々は人相少納言と呼んだ。この少納言以仁王を見た際に、「皇位につくべきとの相が見られます。あきらめられるべきではありません」と言った。入道・頼政も同じような事を言っていたので、「やはりそうすべきである。天照大神のお告げであろう」と、以仁王は手抜かりなく事を進められた。熊野に隠れていた義盛を呼んで、親王家に仕える蔵人になさった。義盛は行家と改名して、以仁王の使いで東国へ向かった。
 治承四年四月二十八日に都を発った行家だったが、近江国に始まり、美濃・尾張と行くにつれて源氏の者たちはどんどんと多くなり、五月十日に伊豆の北条*11に着いた。流されていた前右兵衛佐・頼朝殿に以仁王の命令を伝え、その後、信太の帯刀先生・義憲は兄であるのでと常陸国の信太の浮島*12へ向かい、木曾の冠者・義仲は甥であるのでと中仙道へも向かった。
 当時の熊野の権別当湛増*13は、妹が平忠度の妻となった事などから平家に心を寄せていたが、どこからか耳に入ったのだろう、「新宮の義盛が、以仁王の命を受けて美濃・尾張の源氏たちにふれ回り、謀反を起こそうとしている。三山*14のうち那智・新宮の者たちは、きっと源氏の味方をするであろう。だが湛増は平家の恩を雨ほどに受けている、どうして背く事ができようか。那智・新宮の者たちに戦いを挑んで、平家へ詳しい事情を報告しよう」と、完全武装した一千の兵士と新宮の湊へ向かった。新宮には第十九代別当・行範の子である行全とその兄の行快、侍は宇井、鈴木、水屋、亀甲*15が、那智には行快、行範の兄である範誉を始めとする、総勢二千人以上がいた。開戦の通告の矢がそれぞれから射られ、源氏の方にはこう射れ、平氏の方にはこう射れ、と矢が命中した時に上げる叫び声は途絶える事がなく、矢の音が鳴り止む事もないまま、三日ほど戦いは続いた。湛増は家人や家来をたくさん失い、自分もけがをして命からがら本宮へ逃げ帰った。

*1:げんじぞろえ

*2:安徳天皇の外祖母に当たる時子

*3:もちひとおう:正しくは第三皇子だが、兄が仏門に入ったため第二皇子と見なされた

*4:高倉上皇の母である後白河法皇の女御・滋子

*5:義朝の弟

*6:義朝の異母弟

*7:義朝の息子

*8:義朝の弟で、義盛の兄

*9:清和天皇の六男・貞純親王の子である事による称

*10:本名は宗綱で、宗長とも称す

*11:静岡県田方郡韮山

*12:霞ヶ浦にある島

*13:たんぞう:第18代別当・湛快の子

*14:本宮、新宮、那智

*15:熊野新宮系の神職の諸姓