平家物語を読む58

巻第四 鼬之沙汰*1

 さて、「遠い国や島に流されるのだろうか」とおっしゃりながらも、後白河法皇の鳥羽殿での生活は二年になった。
 治承四年五月十二日の正午頃、おびただしい数のいたちが鳥羽殿の中を走り回った。法皇は非常に驚かれて占いを行った。近江守・源仲兼を呼んで、「この結果を持って陰陽頭・安陪泰親の所へ行き、吉凶を判じた文書を取って来なさい」とおっしゃった。仲兼が泰親の所へ行くと、宿所を留守にしていた。「白河*2という所にいる」と聞き、そこを訪ねて泰親に会った。法皇の仰せを伝えると、泰親はすぐに占いの結果を考え、吉凶を判じた文書を仲兼に渡した。鳥羽殿に戻った仲兼が門から中に入ろうとすると、守護の武士たちがこれを許さない。だが仲兼は鳥羽殿の事をよく知っていたので、土塀を越えて床の下を通り、大床*3の板敷きから泰親の文書を届けた。法皇が文書をご覧になると、そこには「三日以内に喜び事があり、また同時に悲しむべき事がある」と書いてあった。法皇は「喜び事については結構な事である。だがこれほどの身の上になった上に、いったい更にどのような悲しみがあるというのか」とおっしゃった。
 さて、宗盛卿が後白河法皇の事をしきりに説得したため、清盛公はようやく機嫌が直り、五月十三日、法皇が鳥羽殿から出られる事を許した。法皇は八条烏丸にある美福院*4の御所へ移られる事になった。泰親の言っていた三日以内の喜び事とはこの事であった。そのようなところへ、熊野の別当湛増が飛脚を使って、高倉の宮*5の謀反の事を都へ伝えてきた。非常に動揺した宗盛卿がちょうど福原の邸にいた清盛公にこの事を伝えると、清盛公は最後まで聞き終わらないうちに福原を飛び出してすぐに都へやって来た。来るやいなや「あれこれ言っている暇はない。今すぐに高倉の宮を捕まえて土佐国の幡多*6へ流せ」と命じた。この時、この件を担当する首席の公卿は三条の大納言・実房、実務に当たる蔵人は弁官で蔵人頭の藤原光雅だったと聞く。大夫判官・源兼綱、出羽の判官・源光長が命令を受けて、高倉の宮の御所へと向かった。だが、このうちの大夫判官・兼綱というのは、入道・源頼政の養子であった。つまり兼綱をこの件に当たる人数のうちに入れた事は、高倉の宮の謀反は頼政が勧めたものだと平家がまだ知らない事を示していた。

*1:いたちのさた

*2:左京区

*3:寝殿造り・武家造りの、簀子縁の内側の床

*4:鳥羽天皇の皇后・得子

*5:以仁王

*6:高知県幡多郡四万十川河口の僻遠の地で、古く遠流の地とされた