平家物語を読む134

巻第九 三草勢揃*1

 一月二十九日、源範頼義経後白河法皇の御所を訪ねて、平家追討のために西国へ出発する事を伝えると、法皇は「本朝には、神代から伝わる三つの宝物がある。内侍所・神璽・草薙剣*2がそれである。よくよく心して、これらの三種の神器を都へ無事に返すようにせよ」とおっしゃった。二人はこの命をかしこまって受けると、御所を出た。
 二月四日、福原では故清盛公の命日として、形式通りに法要が営まれた。朝に晩にと行われる戦のせいで、月日が過ぎ行く事にも気付かなかったが、一年が過ぎ、あの悲しい春が再びやって来たのである。もし世の中が以前のように平家の思うままであったなら、塔婆を立て、仏を供養し、僧にお布施を与えるところであったが、今はただ男女の君達が集まって泣くばかりである。この機会に、位階を授ける儀式が行われ、僧俗共に官職の任命や昇進があった。門脇の中納言・教盛は、正二位大納言になるという事を宗盛公から伝えられた。が、教盛卿は
   けふまでもあればあるかのわが身かは夢のうちにもゆめを見るかな*3
と返事をして、結局のところ大納言にはならなかった。大外記*4・中原師直の息子である周防介師純は、大外記になった。兵部少輔・正明は、五位蔵人になって、蔵人少輔と呼ばれた。昔、平将門が東八ヶ国を討ち従え、下総国相馬郡*5に都を建てた際、自身を平親王を称して、文武百官を任命した時には、暦博士*6はなかった。今回はその時と似てはいるが、違う。平家は旧都へ移ったといっても、天皇三種の神器を帯しており、天子の位を備えている。位階の儀式が行われても間違いではなかった。
 平家は既に福原まで攻め上がり、じき都へ帰ってくるとの噂が流れると、都に残っていた人々は非常に喜んだ。平家と行動を共にしていた二位僧都・全真*7は、梶井の宮*8と同じ寺坊に住み、共に修行をした縁があり、折りある毎に手紙を送っていた。梶井の宮からも、よく返信があった。「あなたの旅の空の様子は、想像するだけでも心苦しいものです。都もいまだ、鎮まってはいません」などと書かれた手紙の奥に、一首の歌があった。
   人知れずそなたをしのぶこゝろをばかたぶく月にたぐへてぞやる*9
全真はこの手紙を顔に押し当てて、止める事のできない涙を流した。
 さて、小松の三位中将・維盛*10卿は、月日が重なるにつれて、都へ残してきた北の方と子供たちへの思いを募らせていた。商人の便りで、たまたま手紙のやり取りをする事があっても、北の方の都での様子を聞くと何とも心苦しい。それならば呼び寄せて同じ場所で最期を迎えようと思っても、自分はそれでも構わないが、北の方にとってはかわいそうな事だと思いとどまる。このような思いで暮らしていたという事が、まさに北の方に対する思いつめた愛情の深さの表れであった。
 一方、源氏は二月四日に福原へ攻め寄せるはずだったが、故清盛公の命日だと聞き、法要が終るのを待つ事にした。だが翌五日は西ふさがり*11、六日は道忌日*12であるため、七日の午前六時頃に一の谷の東西の木戸口にて、源平の矢合わせを行う事を定めた。とはいえ、四日は吉日であるので、正面・背面軍と兵士を二つに分け、都を出発する事にした。正面軍の大将軍は範頼であり、伴う人々は武田太郎信義・鏡美二郎遠光と小次郎長清・山名次郎教義と三郎義行、侍大将には梶原平三景時とその嫡男の源太景季、次男の平次景高、三郎景家・稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝と五郎行重・小山小四郎朝政と中沼五郎宗政・結城七郎朝光・佐貫四郎大夫広綱・小野寺禅師太郎道綱・曽我太郎資信・中村太郎時経・江戸四郎重春・玉井四郎資景・大河津太郎広行・庄三郎忠家と四郎高家・勝大八郎行平・久下二郎重光・河原太郎高直と次郎盛直・藤田三郎大夫行泰、これらを先頭にして総勢五万騎が、二月四日の午前八時半頃に都を発って、同日の午後五時頃に摂津国の児屋野*13に陣を構えた。背面軍の大将軍は九郎義経であり、伴う人々は安田三郎義貞・大内太郎維義・村上判官代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平と息子の弥太郎遠平・三浦介義澄と息子の平六義村・畠山庄司次郎重忠と長野三郎重清・三浦佐原十郎義連・和田小太郎義盛と次郎義茂と三郎宗実・佐々木四郎高綱と五郎義清・熊谷次郎直実と息子の小次郎直家・平山武者所季重・天野次郎直経・小河次郎資能・原三郎清益・金子十郎家忠と与一親範・渡柳弥五郎清忠・別府小太郎清重・多々羅五郎義春と息子の太郎光義・片岡太郎経春・源八広綱・伊勢三郎義盛・奥州佐藤三郎嗣信と四郎忠信*14・江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶*15、これらを先頭にして総勢一万騎が、同日同時に都を発って丹波路へ向い、二日要する行程を一日で馬を飛ばして進み、播磨と丹波の境である三草の山*16の東の山すそ、小野原*17に着いたのだった。

*1:みくさせいぞろえ

*2:八咫鏡八坂瓊曲玉・宝剣

*3:今日までよく生き永らえてきたと思う我が身が昇進にあずかるとは、夢の中で夢を見ているようで虚しい事である

*4:太政官少納言の下で、公事などを行った書記官

*5:茨城県北相馬郡の辺り

*6:陰陽寮に属し、暦の作成や学生への暦道の教授を行った

*7:参議・藤原親隆の子で、平時子の妹の子に当たる

*8:梶井円融院の住職で、この時は後白河法皇の第七皇子・承仁法親王

*9:人に知られないようにあなたのいる空を思う私の心を、西へ傾く月に託します

*10:これもり:故重盛の長男

*11:陰陽道で、太白(金星)の精である大将軍が西にいるため、西が日のふさがりとなる

*12:陰陽道で、外出を嫌う日

*13:兵庫県伊丹市の西に広がる地域

*14:藤原秀衡の家人であったが、義経の家来となった

*15:熊野別当の子という説もある

*16:兵庫県加東郡社町の山で、丹波・播磨・摂津の三国に接する

*17:兵庫県多紀郡今田町を含む広い野