平家物語を読む71

Mourning Dove

巻第五 都遷*1

 治承四年六月三日に、安徳天皇が福原へ向かわれるという事で、京中が騒然となった。日頃から遷都があると噂には聞いていたが、まさか今日明日に差し迫った事とは思っていなかったので、これはどういう事かと身分の高い者も低い者も皆が大騒ぎだった。そればかりか三日と決まっていた日程が一日早まって、二日になった。二日の午前六時頃、早くも御輿が御所に着く。安徳天皇は今年で三歳とまだ幼く、何も考える事なく御輿に乗られた。天皇がこのように外出される時、同じ御輿に乗るのは母后であるのだが、今回はそうではない。乳父の大納言・平時忠卿の北の方である帥の典侍殿が、安徳天皇と同じ御輿に乗った。先帝・高倉天皇中宮安徳天皇の母である建礼門院徳子殿、後白河法皇高倉上皇も福原へ向かわれた。摂政殿*2を先頭に、太政大臣以下の公卿・殿上人は我も我もと、お供の行列に加わった。三日に福原へ到着し、中納言平頼盛*3卿の宿所が御所となった。四日、自邸を御所として提供した事に対する褒美として、頼盛卿は正二位になり、右大臣・藤原兼実*4殿の息子である右大将・能通卿を追い越した。摂政関白になれる家柄の者がそれ以下の身分の人の次男に、位の昇進する順を追い越される事は、これが初めてと聞く。
 さて、清盛公は後白河法皇に対する反感をようやく和らげ、法皇を鳥羽殿から都へ移していたが、高倉の宮の謀反によって、再び腹を立てていた。福原へ到着された後白河法皇を、周りに四面に板を張り巡らし、一箇所だけ口を開けた中の小さな板葺きの家に押し込め、護衛の武士として原田の大夫・種直だけを置いた。気軽に人が訪れる事もないので、子供たちは「牢の御所」と呼んだ。耳にするのも腹立たしく恐ろしい事である。後白河法皇は「今のこの世では政治をしようとは少しも思わない。ただただ山や寺で修行して、この心を慰めたい」とおっしゃっていた。平家の悪行はほぼこれより先はないという所まで行き着いた。「安元から現在までに、多くの公卿・殿上人を流したりあるいは滅ぼしたりして、関白を流して自身の婿を関白にし、法皇を鳥羽殿に移し、第二皇子の高倉の宮を討った。今や残された悪行は遷都だけだったので、それに及んだのだ」と人々は言った。
 遷都には前例がない訳ではない。神武天皇とは、この国土を治めた五代目の神・うがやふき不合尊*5の第四皇子で、御母は玉依姫といって海人の娘である。十二代の神の跡を受け、それ以後の代々の天皇の祖である。辛酉の年に日向国宮崎において皇位を継ぎ、己未の年十月に東征して豊葦原の中つ国にとどまり、そこを大和国と名付けて畝傍山*6を選んで都を建て、橿原の土地を拓いて御所を造られた。これが橿原宮と名付けられた。それから現在まで、代々の天皇が都を他国や他所へ遷され、その数は三十回を越え四十回に達する。神武天皇から景行天皇までの十二代は、大和国に建てられた都が他国へ遷される事はなかった。ところが成務天皇の治世元年に近江国の志賀に都を遷した。仲哀天皇の治世二年には長門国の豊浦に都が遷された。この豊浦宮では、天皇がお亡くなりになった後、神功皇后が執政を行い、女帝として薩摩諸島・朝鮮・契丹までも軍を率いて攻めた。異国の戦を終えて戻られて後、筑前国の三笠で皇子が誕生したため、その場所を「うみ(宇美)の宮」と呼んだ。口に出して言うのも恐れ多いが、応神天皇の事である。その後、神功皇后大和国に移られて、磐余稚桜の宮*7に居住された。応神天皇は同国の軽島明の宮*8に居住された。仁徳天皇の治世元年に都は大和国十市*9に遷った。反正天皇の治世元年には河内国に遷り、天皇は柴垣の宮*10に居住された。允恭天皇*11の治世四十二年に再び都は大和国に遷り、天皇は飛鳥の宮*12に、雄略天皇の治世二十一年には同国の泊瀬朝倉*13に御所を造られた。継体天皇の治世五年に山城国の綴喜*14に遷って十二年後には、乙訓*15に御所が造られた。宣化天皇の治世元年に再び都は大和国に遷り、天皇は檜隈の入野の宮*16に居住された。孝徳天皇の大化元年に摂津国の長良に都は遷り、天皇豊崎の宮*17に、斉明天皇の治世二年にはまた大和国に遷り、女帝は岡本の宮*18に居住された。天智天皇の治世六年に都は近江国に遷り、天皇は大津の宮*19に居住された。天智天皇は「清見原の御門」とも呼ばれる。持統・文武両天皇の御所は、同国の藤原の宮*20にあった。元明天皇から光仁天皇までの七代は、奈良の平城京に都を置いた。
 ところが、桓武天皇の治世の延暦三年十月二日に奈良の平城京*21から山城国の長岡*22に都が遷ってから十年目という延暦十二年の正月、大納言・藤原小黒丸、参議左大弁・紀の古佐美、大僧都・玄慶たちに山城国賀殿郡宇多の村*23を偵察させると、皆が口をそろえて「この土地の地形は、東に流水がある『左青竜*24』・西に大道がある『右白虎*25』・南に沢畔がある『前朱雀*26』・北に高山がある『後玄武*27』の四相が備わっている『四神相応』の地形であり、最も都を置くにふさわしい」と言った。よって乙城郡*28の賀茂大明神に報告をして、延暦十三年十二月二十一日に、長岡京から都が遷された。それから、天皇三十二代*29、三百八十年以上の年月が経過した。「昔から代々の天皇が国の様々な場所に多くの都を建てられてきたけれども、このように優れた土地はなかった」と、桓武天皇は特に執着なさり、大臣・公卿・学問などに優れた才人たちに相談して、この都が永遠に続くようにと土で八尺の人形を作り、鉄の鎧・甲を着せ、同じく鉄の弓矢を持たせ、東山峰に西向きに立てた姿勢で埋められた。そして末代にもしこの都を他国へ遷す事があったならば、守護神となって遷都を阻止してほしいと祈られた。そうであるので、国が乱れた時は必ず、この塚が鳴動した。「将軍の塚」と呼ばれ、今もある*30桓武天皇というのは、平家の遠い祖先でいらっしゃる。中でもこの都に対しては、穏やかで落ち着いた都であるようにと「平安京」と名付けられたのだから、最も平家が敬うべき都のはずである。先祖の天皇がそこまで執着なされた都を、これといった明確な理由もなく他国へ遷すとはあきれたことだ。嵯峨天皇の治世に、先帝の平城院の内侍・藤原薬子がその兄・仲成たちと謀反を起こし、平城院の復位と平城京への復帰を企てた事があったが、大臣・公卿・諸国の人々が勅命に従わなかったので、都は遷されずに済んだ。天子でさえも遷す事ができなかった都を、人民の清盛公が遷すとはとんでもない事である。
 旧都である平安京は何とも見事な都であった。仏が鎮守の神々として現れ、ご利益が際立った瓦ぶき屋根の寺が多く立ち並び、民衆に苦しみはなく、五畿七道*31との往来も盛んだった。けれども今では道筋のどこもが掘り返され、車などが簡単に通る事はできない。まれに道行く人も、小車に乗り遠回りをしなければならない。建て込んだ家屋も、日ごとに荒れていく。家は取り壊され、賀茂川桂川でいかだが組まれ、資財道具は福原に運び出された。瞬く間に花の都が田舎になる事が悲しい。誰の仕業だろうか、旧都の内裏の柱に、歌が二首書かれていた。
   もゝとせを四かへりまでにすぎきにし乙城のさとのあれやはてな*32
   咲きいづる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき*33
 六月九日には新都を造る事業を始めるという事で、上卿*34として徳大寺の左大将・実定卿と土御門の宰相中将・通親卿、実務に当たる太政官弁韓として蔵人左少弁・行隆が、官人たちを連れて和田の松原*35の西の野を選定し、区画を一条から九条まで分けようとしたが、狭い地形であったために五条までしか分ける事ができなかった。担当の役人が戻ってこの事を伝えると、それならば播磨国の印南の野*36か、それとも摂津国の児屋野*37かなどと公卿は評議を行ったが、事態がうまく進むようには見えなかった。
 旧都はすでに離れたが、新都の造営はいまだはかどらない。ありとあらゆる人々が、身の置き場のないような不安な気持ちでいた。もともと福原の地に住む人々は土地を失って嘆き、今度移って来た人々は土木工事が大変で嘆いた。すべてがまるで夢のようである。通親卿が言うには、大陸の長安では三条の路を縦横に通し、城壁に十二の門を設けたと言う。よって五条まで路がある都に、内裏を建てられない訳がない。とりあえず仮の内裏を建てる事が評議され、五条大納言・国綱卿が臨時に周防国を与えられ、それによって内裏を造るようにと清盛公から命じられた。この国綱卿は大金持ちであるので大した問題ではないが、一体どれだけ国の金を費やし、民衆を苦しませる事になるであろう。さし当り行われるはずだった大嘗会*38のような大事を後回しにし、このように世の乱れた状態で、遷都・内裏の造営を行うとはまったく理にかなっていない。昔の賢帝の治世には、内裏は茅をふくだけで軒を整備する事もなかった。民家の間から立ち上がる煙が乏しい時には、限りある税としての物品の取り立ても許された。これはつまり、民衆に恩恵を与え、国を豊かにするためであった。「楚の霊王は豪華な宮殿・章華台を建てたために疲弊した民衆に逃亡され、秦の始皇帝は壮大な宮殿・阿房殿を建てたために国に争乱が起こった」と言う。屋根をふく茅は切りそろえず、屋根を支えるための木は切り出したままで、舟や車も飾らず、衣服には模様などなかった時代もあったものを。「唐の太宗は民衆が疲弊するのを防ごうと、長安の西の離山宮の造営を中止し訪問も控えたため、離山宮の瓦は羊歯に覆われ垣根には蔦が茂ってしまったというのに。まったく大きな違いだ」と人々は言った。

*1:みやこうつり

*2:藤原基通

*3:池の中納言と呼ばれ、清盛の異母弟

*4:九条殿

*5:うがやふきあえずのみこと

*6:奈良県橿原市にある山

*7:いわれわかざくら:現奈良県桜井市の磐余池の近くに建てられた宮殿

*8:かるしまのあきら:現奈良県橿原市大軽町の近くに建てられた宮殿

*9:とうち:磐余稚桜の宮と同所

*10:大阪府松原市上田付近とされる

*11:いんぎょう

*12:奈良県明日香村付近

*13:はつせ:現奈良県桜井市岩坂付近

*14:つづき:現京都府綴喜郡田辺町

*15:おとぐに:現京都市西京区大原野

*16:いるの:現奈良県明日香村檜前付近

*17:大阪市中央区法円坂

*18:奈良県明日香村雷付近

*19:滋賀県大津市錦織付近

*20:奈良県橿原市高殿町付近

*21:奈良市春日野町付近

*22:京都府向日市

*23:がどのぐんうだ:現京都市

*24:さしょうりゅう

*25:うびゃっこ

*26:ぜんしゅしゃく

*27:ごげんむ

*28:愛宕郡

*29:桓武天皇安徳天皇

*30:京都市東山区華頂山頂にある塚

*31:山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五国と、東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七道

*32:四百年もの間、都として栄えてきたこの乙城(愛宕)の里も、荒れ果ててしまう事だろう

*33:咲き始めの桜のように美しいこの都を捨て、潮風の吹き荒れる福原へ遷ったとして、その行く末が案じられる

*34:しょうけい:公事を担当する主席の公卿

*35:現神戸市兵庫区南部の砂浜

*36:いなみ:現兵庫県加古郡から明石市の辺り

*37:こやの:現兵庫県伊丹市の西

*38:だいじょうえ:新帝の即位後に初めて行われる新嘗会