平家物語を読む117

巻第八 山門御行*1

 寿永二年七月二十四日の夜中、後白河法皇は按察大納言・資賢卿の息子である右馬頭・資時だけをお供につけて、密かに御所から鞍馬へ向われた。鞍馬寺*2の僧たちが「ここはまだ都が近くて、危ないかもしれません」と言うので、篠の峰*3・薬王坂*4などという険しい道を何とかして進み、横川の解脱谷*5にある寂場坊を仮の御所として入られたのだった。すると延暦寺の僧たちが大挙して「東塔*6へいらっしゃらなければ」と言うので、結局、東塔の南谷にある円融坊が仮の御所となった。そういう訳で、延暦寺の僧たちも武士たちも、円融坊の守りを固めた。このように後白河法皇は院の御所を出て比叡山へ、安徳天皇は皇居を出て西海へ、また摂政・藤原基通殿は吉野の奥へ入ったと聞く。建礼門院以外の女院の方々は、八幡・賀茂・嵯峨・太秦・西山・東山など都から離れた辺鄙な場所へ逃げてお隠れになった。平家は都を出たが、源氏はまだ都にやって来ない。今や都は、主のいない里になってしまった。世の始めからこのかた、このような事があった例はない。聖徳太子の未来記に今日の事が書かれているかどうか見てみたいものだ。
 後白河法皇比叡山にいらっしゃるという事を耳にするや否や、多くの人々が急ぎ集まってきた。前関白・藤原基房殿、摂政・藤原基通殿、左右大臣、内大臣、大納言に中納言、宰相、三位・四位・五位の殿上人と、官位の昇進に希望を持ち、所領や職務を持っているほどの人で、訪れない人は一人もいない。円融坊は余りに人々が押しかけたため、堂上・堂下・門外・門内は少しの隙間もなく人であふれかえっていた。このような比叡山の繁昌は、天台座主・明雲僧正にとっても名誉であると思われた。
 七月二十八日、法皇は都へ戻られた。木曾義仲が五万騎でこれを守護する事になり、近江源氏山本冠者・錦織義高*7が源氏の旗印である白旗を掲げて先頭に立ってお供をした。この二十年ほどは見る事のなかった白旗が、今日始めて都へ入る。めったにない貴重な出来事であった。
 そうしているうちに、十郎蔵人・源行家宇治橋を渡って都へ入った。陸奥新判官・源義康の子である矢田判官代・義清は、大江山を経て都へ入った。摂津国・河内の源氏たちも、同じように都へなだれ込んだ。こうして都中は、源氏の軍勢であふれかえった。さて、勘解由小路*8中納言・経房*9卿、検非違使別当左衛門督・実家*10は、院の御所の殿上の間の外の縁側に、義仲・行家を呼び立てた。義仲は赤地の錦の衣に、大陸伝来の綾を細く畳み中に麻の芯を入れたもので綴った鎧を着て、金銀で縁取りされた豪華な太刀を帯び、白と黒の斑文が際立った羽ではいだ矢を背負い、黒塗りの上を藤蔓で巻いた弓を脇に挟み、脱いだ甲を高紐*11にかけて現れた。行家は紺地の錦の衣に、緋色で染めた革で綴った鎧を着て、金具を黄金で飾った太刀を帯び、上下が白で中央が黒い線になっている羽ではいだ矢を背負い、藤蔓を巻きつけた上を漆で黒く塗った弓を脇にはさみ、やはり脱いだ甲を高紐にかけると、ひざまずいた。前内大臣平宗盛公以下の平家の一族を追討するようにとの命が後白河法皇から下され、両人は庭にてこれをかしこまって受けた。それぞれが宿所のない事を訴えたので、義仲は大膳大夫・業忠*12の宿所である六条西洞院を、行家は法住寺殿の南殿である萱の御所を与えられた。後白河法皇は、安徳天皇外戚である平家に捕らわれて西海の波の上を漂っていらっしゃる事を嘆かれ、天皇及び三種の神器を都へ返すようにと西国へ命を下されたが、平家はこの命に従おうとはしなかった。
 故高倉上皇には、安徳天皇の他に三人の御子がいらっしゃった。このうち二の宮の守貞親王を、平家は皇太子に育て上げようとして、安徳天皇と共に西国へお連れしていた。が、三の宮と四の宮は都にいらっしゃった。
 八月五日、法皇はこの宮たちを呼び寄せられた。まず五歳になる三の宮に「こちらへ、こちらへ」と声を掛けられたが、法皇にお会いになった三の宮は非常にむずかられたので、法皇は「早く連れて行け」と三の宮をその場から出させてしまわれた。その後、四歳になる四の宮に「こちらへ、こちらへ」と声を掛けられると、四の宮は少しもためらわれずに、すぐに法皇の膝の上へと上がられて、いかにも人懐っこい様子でいらっしゃった。法皇は「一体、縁もゆかりもない者ならば、このような老法師を見て、どうして懐かしく思う事があるだろうか。これこそ本当の私の孫である。故高倉院の幼い頃の様子と少しも違うところはないではないか。このような忘れ形見を、今まで見なかったとは」と、涙をはらはらと流された。その頃はまだ丹後殿として法皇に仕えていた浄土寺の二位殿*13が「それでは皇位をお譲りになるのは、この宮でいらっしゃるのでしょうね」と言うと、法皇は「言うまでもない」とおっしゃったという。内々に占った際にも、「四の宮が皇位につかれれば、皇統ははるかに続きます」との結果であった。
 この四の宮・尊成親王の生母は七条院殖子といい、七条修理大夫・藤原信隆卿の娘である。建礼門院がまだ中宮でいらっしゃった時、女房として仕えていたところ、高倉天皇によく呼ばれるようになり、そのうち皇子を続けて身ごもった。信隆卿には娘がたくさんいたが、何とかしてこれらを女御・后にしたいと願っていたところ、「白い鶏を千羽飼った人の家からは、必ず后が出た」という事を聞き、白い鶏を千羽飼ったという。そのお陰だろうか、娘の一人が皇子をたくさん産んだのは。信隆卿は心の内では嬉しかったが、平家と中宮の手前、大切に養育する事もせずにいたのだが、清盛公の北の方である八条の二位殿が「さしつかえあるまい。私が皇太子に育て上げましょう」と、たくさんの乳母をつけて育てる運びとなったのである。
 中でも四の宮は、二位殿の兄である法勝寺執行・能円法印が乳父として養育した宮でいらっしゃる。能円法印は、平家と共に西国へ逃げる時、余りに慌て騒いだため、北の方もこの四の宮も都の置いてきてしまった。よって、西国から急いで人を都に行かせて、「女房*14、四の宮をお連れして、すぐに西へ向うように」と伝えたところ、北の方は非常に喜び、四の宮をお連れして都を出ようとした。西七条まで来た時、北の方の兄である紀伊守・範光*15に「これは、物の怪がとりついて気でも狂われたか。この宮の運は、たった今にも開こうとしていらっしゃるかもしれないのに」と言って都を出るのを留められた。その翌日、後白河法皇からの迎えの車が来たのだった。何事もそうなるめぐり合わせだったとは言いながら、四の宮にとって紀伊守・範光は功績のある人だと思われる。そうであるのに、四の宮は皇位につかれて後、その情けを思い出される事もなく、範光は朝廷からの恩賞もないまま歳月を送っていた。よって、思いつめた果てであろうか、範光は二首の歌を書いた書状を、皇居の中へと落としたのである。
   一声はおもひ出てなけほとゝぎすおいその森の夜半(よわ)のむかしを*16
   籠のうちもなほうらやまし山がらの身のほどかくしゆふがほのやど*17
これをご覧になった天皇は、「何と気の毒な事だ。という事は、今もまだ生きているという事であるな。今日までこの事に気付かなかったのはうかつであった」と恩賞を与えられ、範光は正三位に叙せられたと聞く。

*1:さんもんごこう

*2:毘沙門天を本尊とする天台宗鞍馬弘教大本山で、比叡山延暦寺の末寺

*3:比叡山横川にある峰

*4:鞍馬から静原に出る途中の坂

*5:横川を形成する六つの谷のうちの一つ

*6:根本中堂などがある比叡山の中心部

*7:源義光の子孫

*8:かでのこうじ

*9:藤原氏北家

*10:藤原氏北家

*11:鎧の肩上と胸板をつなぐこはぜに付けた紐

*12:なりただ

*13:栄子、後白河法皇の寵愛を得た

*14:四の宮の生母、七条院殖子

*15:のりみつ

*16:「ほととぎすよ、一声でもいいから思い出して鳴いてほしい、あの老蘇の森の夜の昔のさえずりを」年老いた自分の身を暗示して、しかるべき処遇を求めた

*17:「たとえ窮屈でも立派な鳥かごに飼われている身がうらやましいであろう、夕顔の咲く粗末な里に身を隠しているヤマガラにとっては」宮仕えの願望を表した