平家物語を読む109

巻第七 主上都落*1

 七月十四日、九州の謀反を平定した肥後守平貞能*2は、菊池*3・原田*4松浦党*5以下の三千騎を連れて都へ入った。九州はわずかに平定する事ができたが、東国・北国の戦はどうしても鎮定する事ができないままである。
 七月二十二日の夜中、六波羅の辺りが急に騒がしくなった。馬に鞍を置きしっかりと帯を巻きつけ、物品を四方へと運び隠している。たった今にも、敵が討ち入るかのような様子である。夜が明けてから、その理由が噂となって聞かれた。美濃源氏佐渡衛門尉・重貞という者がいる。先年の保元の乱の時、九州の為朝*6崇徳院方の戦に負け、逃げていくところを捕らえて差し出した褒美として、もとは兵衛尉だったのが右衛門尉になっていたが、この事により、源氏一門には敵視され平家にへつらっていた。この重貞が、昨日の夜中、六波羅に急ぎやって来て、「義仲は既に北国から五万騎で攻め上り、比叡山の東麓の坂本にあふれています。従者の盾の六郎親忠、書記の大夫房覚明は六千騎で比叡山に上り、三千の延暦寺の僧たちが皆、味方について、今にも都へ攻め入ろうとしています」と伝えたのが、その騒動の理由だった。これを聞いた平家の人々は大騒ぎになり、方々へ討手を送った。新中納言・知盛卿、本三位中将・重衡卿を大将軍に、総勢三千騎が都を発ち、まず山階*7に留まった。越前三位・通盛、能登守・教経*8は、二千騎で宇治橋の周りを警固した。左馬頭・行盛、薩摩守・忠教は、一千騎で淀路*9を守護した。源氏側は十郎行家が数千騎で宇治橋から攻め入るつもりだとの噂も聞かれる。また、陸奥新判官・源義康*10の子である矢田判官代・義清が、大江山を越えて都へ攻め入るだろうと言い合う者もいた。摂津源氏の多田や河内源氏の石川らが、大量に都へ乱れ入るとの噂が流れると、平家の人々は「こうなった上は、皆が一箇所に集まって最期を遂げよう」と、方々へ送った討手を都へ呼び帰した。都は名声や利益を追い求めるのに忙しい土地で、鶏の鳴く早朝から心が休まる事はない。平穏無事な世でもそうであるのだから、乱世においては当然の事である。吉野山の奥にでも入ってしまおうかと思いもするが、諸国七道はことごとく平家に背いている。どこにも平穏なところなどない。苦しみの絶えない三界*11の生死は火に燃える家のようなものであると、釈迦如来の言葉にある。大乗の教法の妙文であり、どうしてその通りではない事などあるだろうか。
 七月二十四日の夜更け頃、前内大臣・宗盛公が建礼門院*12のいらっしゃる六波羅殿を訪れた。「この世の中の有様を見ても、まだどうにかなるであろうと思っていましたが、今はそれも叶わないようです。こうなった上は、都の中で最期を遂げようと人々は申していますが、敵に直接、辛い様子を見られるのも悔しいので、後白河法皇安徳天皇もお連れして、西国の方へ向うのはいかがかと思い、やって参りました」と伝えると、建礼門院は「今ただ、どうなりともあなたの計らいにお任せしましょう」と、とめどなく涙を流された。宗盛公も、流す涙で衣の袖が濡れるほどであった。
 その夜、後白河法皇は内々に、平家の計らいで都の外へ逃げる事になるとお聞きになったのであろう。按察大納言・資賢卿の子である右馬頭・資時をお供に密かに御所を出られ、鞍馬へと向われたしまった。この事を知る人はいない。平家の侍である橘内左衛門尉・季康という者は、機転がきき抜け目のない男であったので法皇に召し使われていた。その夜も、法住寺殿に宿直していたところ、御所に関係のある方々がひそひそとささやき合い、女房たちも声を出さずに泣いたりしているので、何事かと耳をそばだてると、「法皇が急にいらっしゃらなくなったのですが、どちらへ外出なされたのでしょう」と言っているのが聞こえた。「何という事だ」と、すぐに六波羅へ駆けつけ、大臣・宗盛公にこの事を伝えると、宗盛公は「いや、誤報であるぞ」と言いながらも、話しの途中で急ぎ法住寺殿へと向った。法皇を探したが、実際にいらっしゃらない。その場に居合わせた女房たち、二位殿*13・丹後殿*14以下の誰一人として動く事もできない。「一体、何事か」と言っても、「私は法皇の行方を存じています」と言う人は一人もおらず、皆があきれ返った。
 そうしているうちに、後白河法皇が都の中にもいらっしゃらないと伝わるや否や、都中は大騒ぎになった。特に平家の人々の慌て騒ぐ様子は、たとえ家に敵が打ち入ったとしても、限度があるのでこれには及ばないと思われた。この頃は、平家は後白河法皇安徳天皇もお連れして、西国の方へ向かおうと準備をしていたところだったので、このように見捨てられてしまい途方に暮れていた。「とはいえ、天皇だけでいらっしゃるが、お連れしろ」と、午前六時頃に御輿を御所に寄せると、今年六歳とまだ幼くいらっしゃる安徳天皇は何も迷う事なく乗り込まれた。母の建礼門院も同じ御輿に乗られ、内侍所・神璽・宝剣の三種の神器天皇に渡された。「天皇の正印と諸官庁の蔵の鍵、時刻を示した札、玄上*15鈴鹿*16といった名器なども十分に揃えよ」と大納言・平時忠卿が指図したが、余りに慌て騒いだために、忘れた物も多かった。清涼殿の天皇の日中の御座所に置かれている剣なども、その一つである。この時忠卿、息子である内蔵頭・信基、讃岐中将・時実の三人は、束帯の略装にて天皇のお供についた。近衛府の役人、御輿の綱を取る大舎人寮の次官は、甲冑をまとい、弓矢を携帯してお供をした。御輿は六波羅を出てから七条大路を西へ向い、朱雀大路と交わる所で進路を南に取った。
 夜が明けて七月二十五日になった。天の川のかかる空は早くも白々と明け、雲は東の峰にたなびいている。明け方の月は白く冴え、鶏は忙しそうに鳴いている。このような事になるとは、夢にも思わなかった。先年、遷都だといって急に慌しくなったのは、こうなるであろう前ぶれだったのかと、今になって思い知らされたのである。
 摂政・藤原基通殿も天皇の外出にお供していたが、七条大宮の辺りで髪を左右に分けて結った童子が御車の前をさっと駆け抜けるのを見た。その童子の左の袂には、「春の日」という文字が表れていた。「春の日」と書いて「かすが」と読む。きっとこれは、藤原氏の氏寺、法相宗興福寺の鎮守である春日大明神が、藤原鎌足の末裔を守っておられるのだと頼もしく思っていると、その童子の声と思われる声が言った。
   いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくをたゞ春の日にまかせてや見ん*17
摂政殿は進藤左衛門尉高直を近くに呼ぶと、「つくづく事の様子を考えてみるに、天皇をお連れする事はできても、法皇をお連れする事はできなかった。この先、頼みとなるものがないと思うのだがどうであろうか」と言って、牛飼いに目配せをした。すぐにその意味を承知した牛飼いは車を方向転換し、大宮大路を北へ向って飛ぶがごとくに進んだ。摂政・基通殿は、北山の辺りの知足院*18へと入ってしまった。

*1:しゅしょうみやこおち

*2:桓武平氏

*3:肥後国菊池郡の豪族

*4:筑前国御笠郡原田の豪族

*5:肥前国松浦郡の豪族

*6:源為義の八男で、義朝の弟

*7:やましな:現京都市山科区の辺りで、京都から大津へ出る道筋

*8:のりつね:教盛の子

*9:よどじ:現京都市伏見区桂川宇治川・木津川が合流する西国への要衝

*10:清和源氏

*11:欲界・色界・無色界

*12:高倉天皇中宮となり、安徳天皇を産んだ

*13:時子

*14:高階成章の子孫で、法印澄雲の娘・栄子

*15:げんじょう:藤原貞敏が唐から持ち帰ったという琵琶の名器で、天皇相伝された

*16:和琴の名器で、天皇相伝された

*17:藤の末葉が枯れるように、藤原氏の末裔が滅びていくのはどうしようもないが、今はただ、春日大明神の神意に任せて都にとどまってはどうか

*18:ちそくいん:現京都市北区紫野にあったという三井寺の別院