平家物語を読む126

巻第八 鼓判官*1

 さて都では、あふれ返った源氏があちこちに押し入っては物品を奪い取っていた。賀茂神社石清水八幡宮神領であろうとはばかる事なく、青田を刈っては馬に与える草にしている。他人の倉を押し開けて物を取り、通行人の持ち物を奪い取り、衣服までもはぎ取った。人々は「平家が都にいた時は、清盛殿といえども、ただ何となく恐ろしいだけであった。衣服をはぎ取られる事などなかったものを。源氏はむしろ平家より劣っている」と、言い合った。
 木曾義仲のもとへ、後白河法皇からの使者が来た。「無礼な振る舞いを鎮めよ」との事である。使者は、壱岐守・平朝親の子である壱岐判官・知康という者であった。この世で敵う者のないような鼓の名手であったので、当時の人々は「鼓判官」と呼んでいた。対面した義仲はすぐには返事を伝えずに、「そもそもあなたを『鼓判官』と言うのは、多くの人に打たれなさったからか、叩かれなさったからか」と知康をからかった。知康は返事もできない。法皇の御所に戻ってから、「義仲は愚かな者でございます。今すぐにも朝敵になってしまう事でしょう。急いで追討させるべきです」と伝えた。これを聞いた後白河法皇は、それなりの武士に命じるべきであるのに、そうではなく比叡山の座主・明雲と三井寺の長官・円慶に命じて、比叡山三井寺の悪僧たちを集めさせた。公卿・殿上人の集めた軍勢である。石投げを得意とする賤民・白河の辺りにたむろした徒党といった、取るに足らない市井の無頼の徒・下賎な法師たちばかりだった。
 木曾義仲後白河法皇の機嫌を損なわせたという噂が流れると、初めは義仲に従っていた五機内*2の兵士たちは皆が背いて、法皇の方についた。信濃源氏村上三郎判官代も、義仲に背いて法皇の方へついた。今井四郎が「これこそ一大事でございます。だからといって、天皇を相手にどうして戦ができるでしょうか。甲を脱ぎ、弓を外して降参してください」と言うと、義仲は非常に怒って「私が信濃を出てからというもの、麻績*3・会田*4の戦を皮切りに、北国では砺波山・黒坂・篠原、西国では福立寺縄手・篠・板倉城と攻めてきたが、いまだ敵に背中を見せた事はない。たとえ天皇といえども、甲を脱ぎ弓をはずして降参するなどできるはずがない。大体、都の守護をする者は馬を一匹づつ飼って乗らなければならないというのか。いくらでもある田の草を刈って馬に与える事を、むやみに法皇が禁止できるというのか。兵糧米もないというのに、若者たちが都の近郊に出掛けて、時々物品を奪い取る事が、どうして間違った事であるというのか。大臣家や宮の方々の御所へ押し入ったというのならば、間違いにもなろう。これは鼓判官の悪巧みと思われるぞ。その鼓を打ち破って捨ててしまえ。今度が義仲の最後の戦になるだろう。頼朝が伝え聞くかもしれないという懸念もあるし、皆のもの、戦の準備をせよ」と言って、立ち上がった。北国の軍勢は、今やわずか六千騎を残すばかりである。勝利した戦のいい例にならって、義仲は軍勢を七手に分けた。まず、樋口次郎兼光の率いる二千騎を、新熊野*5の方へ、背面から攻める軍として行かせた。残りの六手は、それぞれがたむろしている町角や路筋から川原へ出て、七条河原で一つになるようにと、合図を決めて出発させた。
 戦は十一月十九日の朝である。後白河法皇の御所である法住寺殿にも、兵士が二万人以上集まっているという噂が聞かれた。義仲の軍勢は味方の目印として、松の葉をつけた。義仲が法住寺殿の西門に押し寄せてみると、鼓判官・知康が戦の指揮者として赤地の錦の衣を着ている。鎧はわざと着ておらず、甲だけをかぶっており、甲には四天王を描いたものが貼り付けてあった。そして法住寺殿の西にある屋根つきの土塀の上に立っているのだが、片手には鉾を持ち、もう片手には密教の修法に用いる道具である金剛鈴を持っている。その金剛鈴を激しく振っては、時に舞いを舞う事もあった。若い公卿・殿上人は「みっともない。知康に天狗がとりついた」と笑っている。知康が大声で「昔は天皇の命を読み上げれば、枯れた草木も花咲き、実をつけ、悪鬼・悪神も従った。末世だからといって、どうして天皇に向って弓を引く事ができるというのか。お前たちが放った矢は、返って自身に当たるだろう。抜いた太刀は、自身を切るだろう」などとののしると、義仲は「あんな事を言わせるな」と言って、軍勢はどっと喚声を上げた。
 一方、新熊野の方からも、背面から攻めるように遣わされた樋口次郎兼光の軍勢が、この喚声に合わせて声を上げた。鏑矢の中に火種を入れて法住寺殿に射ると、ちょうど風が激しかったことから、たちまち火は天に燃え上がり、炎が空一面に広がった。すると、戦の指揮者である知康が誰よりも先に逃げ出した。指揮者が逃げた上は、二万人の官軍も我先にと逃げていく。余りに慌て騒いだために、弓を取った者は矢を忘れ、矢を取った者は弓を忘れた。長刀を逆さに持ったため、自分の足を貫く者すらいる。弓の端をどこかに引っ掛け、外す事ができずに捨てて逃げる者もいた。七条大路の東のはずれは、法皇の方についた摂津国に根拠地を持つ源氏の末流が固めていたが、これも七条を西へ逃げた。この戦が始まる前に、後白河法皇より「落人がいたならば、打ち殺せ」とのお触れが出ていたので、都の者たちは屋根の上で楯を立て、屋根板を押さえるための石を手元に集めて待ち構えていた。そこへ摂津国の源氏が逃げてきたので、「何と、落人だ」と、石を拾っては散々に打ちつけた。「これは法皇方だぞ。過失を犯すな」と言っても、「そんな事を言わせるな。法皇の命なのだから、ただただ打ち殺せ」と、その手を止めようとはしない。よって、馬を捨ててやっとの事で逃げた者もいたが、打ち殺されてしまった者もいた。八条大路のはずれは比叡山の僧兵が固めていたが、恥を知る者は討ち死にし、そうでない者は逃げ出した。
 主水正*6・親業*7は、薄青の略服の下に萌黄の糸で綴った簡易な鎧を着て、白味の強い葦毛の馬に乗っていたが、鴨川の河原を北に向って逃げていた。そこに今井四郎兼平が追い付き、首の骨を射て殺した。親業は大外記・清原祐隆の子である頼業の息子である。人々は「大学寮で経書を教授する明経博士に、甲冑に身を固める事は、ふさわしくないものを」と言い合ったという。義仲に背いて後白河法皇の方へついた信濃源氏村上三郎判官代も討たれた。これを始めに、法皇方では近江中将・為清、越前守・信行も射殺され、その首を取られた。伯耆守・光長*8と息子の判官・光経も共に討たれた。鎧に立烏帽子で戦に出ていた按察大納言・資賢*9卿の孫である播磨少将・雅賢も、樋口次郎に生け捕りにされた。天台座主・明雲大僧正と三井寺長官・円慶法親王は、法住寺殿にこもっていたが、黒煙がどんどん押し寄せて来るので、馬に乗って急ぎ河原へ逃げた。そこへ武士が散々に矢を射た。明雲も円慶も馬の上から射落とされ、首を取られたのである。
 豊後の国司である刑部卿三位・頼輔卿も法住寺殿にこもっていたが、火が迫ってくると、急ぎ河原へ逃げ出した。そこで武士の下部の者たちに衣服をすべてはぎ取られてしまい、真っ裸で立っていた。十一月十九日の朝であるので、河原に吹く風はさぞかし冷たい事だろう。頼輔卿の小舅に、越前法眼・性意という僧がいる。この性意に仕える下級の僧が戦を見物しようと河原へ出掛けたところ、頼輔卿が裸で立っているのを見つけ、「何と、嘆かわしい」と、走り寄った。この僧は白い小袖二枚の上に衣を着ている。そうであるなら小袖も共に渡せばいいところを、衣だけを脱いで投げ掛けた。頼輔卿は帯もない短い衣をすっぽりと頭からかぶっているだけである。後姿はさぞかし見苦しかった事だろう。衣を渡した僧もお供をしたが、頼輔卿は急いで歩こうともしないで、あそこここと立ち止まり、「あれは誰それの家か。これは何々の宿所だ。ここはどこどこか」と尋ね歩くので、これを見る人は皆が手をたたいて笑い合った。
 後白河法皇は御輿で法住寺殿を出られた。これに武士たちは矢を散々に射た。頼輔卿の孫である豊後少将・宗長が、黒味がかった黄赤色の衣に折烏帽子姿でお供をしていたが、「これは法皇でいらっしゃるぞ。過失を犯すな」と言うと、武士たちは皆が馬から降りてかしこまった。「何者だ」と法皇が尋ねられると、「信濃国の住人・矢島四郎行綱」と名乗る。これらがすぐに御輿を運び、法皇が五条の内裏*10に入られると、周囲を厳しく守護した。
 四歳の後鳥羽天皇は船にて出られた。武士たちがしきりに矢を射てくるので、お供をしていた七条侍従・信清と紀伊守・範光が「これは天皇でいらっしゃるぞ。過失を犯すな」と言うと、武士たちは皆が馬から降りてかしこまった。天皇は閑院殿*11に入られた。この時の儀式のひどさは、何とも言いようのないほどであった。

*1:つづみほうがん

*2:山城・大和・河内・和泉・摂津

*3:おみ:現長野県東築摩郡麻績村

*4:現長野県東築摩郡四賀村会田

*5:後白河法皇熊野権現を京都に勧請した社

*6:もんどうかみ:天皇の粥・水などを司る主水司の長官

*7:ちかなり

*8:清和源氏

*9:すけかた:宇多源氏

*10:五条東洞院にあった藤原邦綱の邸で、故高倉天皇の皇居だった

*11:高倉天皇以来の里内裏で、二条の南、西洞院の西にあった