無常を知る

落ち葉

 平家は滅びた。清盛の次女であり、壇の浦で入水した安徳天皇の生母である建礼門院徳子は、大原の山奥にある寂光院で平家一門の人々の死後の冥福を祈って日を暮す。
 ある時、徳子は後白河法皇の思いがけない訪問を受ける。以下引用文は、法皇を前にして徳子の口からこぼれ出た言葉である。

かゝる身になる事は、一旦の嘆、申に及びさぶらはね共、後世菩提の為には、悦びとおぼえさぶらふなり。

――平家物語〈4〉 (岩波文庫) 灌頂巻「六道之沙汰」より

 私が平家物語を読み始めたのは約一年前のことだ。思えば、この物語を形作ってきた人々のほとんどが、今は死んでしまってもういない。
 そう思った時、本の頁をめくると共に経験してきた平家の繁栄、そして瞬く間の衰滅が改めて思い出され、あの有名すぎる冒頭の言葉が急に、現実の重みを帯びて迫ってきた。


 平家を滅亡に追いやった義経も、近い将来、死ぬ運命にある。今は権威を誇る頼朝も、決して死から免れることはできない。源氏の人々とて、いつかは必ず死ぬ。そこに何の違いがあるというのだろう。
 「このような身になったことは、一時的には嘆かわしいことであるのは言うまでもありませんが、死後の極楽往生を願うならば、返って悦ばしいことと思えるのです」
 こう語った徳子も、今の「悦び」は世に時めいていた頃には知る由もないものであったと気付いていたに違いない。