平家物語を読む193

灌頂巻 大原入*1

 そんな中でも時折、冷泉大納言・隆房卿*2と七条修理大夫・信隆卿の北の方*3が、忍びつつ訪ねて来た。「あの人たちの世話になるとは、昔は思いもしなかったものを」と建礼門院が涙を流されると、そばに仕える女房たちも皆が涙で袖を濡らした。
 この住まいはまだなお都に近く、道を行き来する人も多い。草葉の先の露が風に吹かれるのを待つように、死までの残り少ない時間を、辛い事が耳に入らない山奥で過ごそうとも思ったが、その願いを満たすようなつてもなかった。が、ある女房が「大原山*4の奥の寂光院*5と申す所は、とても静かな所でございます」と言うので、建礼門院は心を決められた。御輿などは隆房卿の北の方が準備したとも聞く。文治元年の九月下旬頃に、建礼門院はその寂光院へ向かわれた。道中、四方の梢が色とりどりに紅葉しているのを眺めながら進む。山陰を行くので、日が暮れるのも早い。野にある寺が鳴らす夕暮れを告げる鐘がひどく寂しい思いを誘う。踏み分けていく草の葉は露でしっとりと濡れているため、衣の袖まで濡れてしまった。山に吹く風は激しく、木の葉が乱れ散っている。空には雲が広がり、いつしか時雨が降ってきた。鹿の鳴く声がかすかに聞こえ、恨み言のような虫の声も絶え絶えに聞こえてくる。見るもの、聞こえるものすべてに、心細さは増すばかりであった。浦から浦へ、島から島へと海上を移動していた時も、さすがにこれ程ではなかったのにと思われたというから悲しい事である。寂光院は岩が苔むした趣のある場所にあり、住みたいと思うような寺院であった。露の降りた庭で、霜により枯れてしまった萩、垣根の菊に自身を重ね合わされたのであろう。仏の前で「安徳天皇の御霊魂が正しい悟りを開かれ、平家一門の亡魂もただちに悟りを得るように」と祈ったが、安徳天皇の面影がひしと身にまとわりついて、いつの世になっても忘れられるとは思えなかった。建礼門院寂光院の傍らに一丈*6四方の庵室を構えると、一間を寝室に、一間を仏間に定め、昼夜・朝夕の仏前での勤行、念仏を絶え間なく唱える事に専念し、月日を送られた。
 かくして十月十五日の夕方、庭に散り積もった楢の葉を踏み鳴らす音が聞こえたので、建礼門院は「この世を厭うこの場所に、何者が訪ねて来たというのでしょう。見てきなさい。隠れなければならない人でしたら、すぐに隠れましょう」とおっしゃった。見てみると、人ではなく雄鹿が通っていたのである。建礼門院から「どうだったか」と尋ねられ、大納言佐殿*7は涙を押さえてこう言った。
   岩根ふみたれかはとはんならの葉のそよぐはしかのわたるなりけり*8
建礼門院は寂しく思われて、窓の小障子にこの歌を書きとめられたのだった。
 このような辛い日常の中でも、周りの情景を極楽浄土の風物になぞらえてみる事は多くあった。軒に並んでいる樹木は、七重宝樹*9と見なされた。岩の間に溜まる水は、八功徳水*10と考えられた。無常は風に散りやすい春の花にたとえられ、この世は雲に隠れやすい秋の月にたとえられる。後宮で朝に愛でていた花は、風によりその匂いが散らされ、夕に眺めていた月は、雲により光を隠されてしまった。昔は玉で飾った高楼、金でちりばめられた御殿に錦の敷物を敷いてと、何ともいえないほど美しい住まいに暮していたが、今は柴を引き結んで作った粗末な庵に住んでいる。そばで見ている人の袖も涙で濡れた。

*1:おおはらいり

*2:妻が清盛の娘で、建礼門院の妹に当たる

*3:同じく清盛の娘で、建礼門院の妹

*4:京都市左京区

*5:じゃっこういん:現京都市左京区大原にある天台宗の尼寺

*6:約3メートル

*7:すけどの:重衡の妻

*8:このような山奥の岩の根を踏んで誰が訪ねて来るというのでしょう、楢の葉が音を立てたのは鹿が通ったからです

*9:極楽浄土にあるという宝の木で、阿弥陀経に見える

*10:はっくどくすい:極楽浄土にあるという八つの功徳を持つ清水