平家物語を読む162

巻第十一 逆櫓*1

 元暦二年一月十日、九郎大夫判官・義経後白河法皇の御所である六条西洞院を訪れ、大蔵卿・泰経*2朝臣を介して後白河法皇へ以下の事をお伝えした。「平家は神にも見放され、君主にも見捨てられ都を出て、波の上を漂う落人となりました。しかし、この三年の間、平家を攻め落とす事ができずに、多くの国が占領され、交通が遮断されているため、物資や貢物の流通が途絶えている事が悔しいのです。よって、義経は鬼界・高麗・天竺・震旦*3までも平家を攻め、攻め落とさない限りは、都へ帰るつもりはありません」頼もしいこの言葉をお聞きになった法皇は非常に感心なさって、「夜も昼も休み怠る事なくよくよく注意して、戦いに勝つように」とおっしゃった。六条堀河の宿所に帰った義経は、東国の兵士たちに向かって「義経は、鎌倉殿の代わりとして、後白河法皇の命を受け、平家の追討を行う。陸では馬の足の進む限り、海では櫓・櫂の届く限り、攻め続けるように。少しでも裏切りの心がある人々は、すぐにここから帰って構わない」と言った。
 さて、時が過ぎるのは速いもので、屋島では正月も過ぎ、二月になった。草の萌え出る春が過ぎると、吹く風に秋の訪れの早さを知り、秋の風がやむと、再び草の萌える春がやって来る。こうして過ごした年も、もう三年になった。都からは、東国より加わった新たな数万騎ほどの軍勢が、屋島に攻め寄せてくるとも聞く。九州からは、臼杵・戸次・松浦党が一つになって、攻めて来るという話しもある。このような話しを聞くにつけて、ただ驚き不安になるばかりである。女房たちは、建礼門院*4・二位殿を始めとして、皆が集まり「今度は一体、どのような辛い目にあうのでしょう。どのような心配事を聞かされるのでしょう」と嘆き悲しみ合った。新中納言・知盛卿は「東国・北国の者たちは、平家から多くの恩を受けたというのに、その恩を忘れ、主従の約束に背いて、頼朝・義仲たちに従ったのだ。西国といっても、きっとそうなるに違いない、それならばいっその事、都にて討ち死にしようと思っていたというのに。だが、我が身だけに関する事ではないので、弱気になって都をさまよい出て、今ではこのような辛い目を見るとは悔しい事だ」と言った。本当にその通りと思われて、気の毒な事であった。
 二月三日、義経は都を発った。摂津国の渡辺*5に船をそろえて、今にも屋島へ攻め寄せようとしていた。範頼も同日に都を発ち、摂津国の神崎*6に兵船をそろえて、山陽道方面*7へ赴こうとしていた。
 二月十三日、伊勢大神宮・岩清水・賀茂・春日へ、神祗官から使者が遣わされた。「安徳天皇、並びに三種の神器を無事に都へお帰しください」と、それぞれの神社の社務を司る神官たちから末社神職までもが、その本宮・本社に集まって祈願を行うようにとの命であった。
 二月十六日、義経のいる渡辺と範頼のいる神崎では、そろえた船がまさに出航しようとしていた。ところが折節、激しい北風が吹き、風にへし折られた木が、大波の上の船を散々に打ち、船を出航する事ができない。修理のために、その日はとどまった。渡辺では大名・小名が集まって「そもそも船戦の方法を我々はまだ訓練していない。どうしたらよいだろうか」と相談が行われた。梶原景時が「今度の戦では、船に逆櫓を取り付けてはどうでしょう」と言うと、義経は「さかろ、とは何だ」と聞き返した。「馬ならば、左にも右にも、進もうと思った方に回す事ができます。ところが、船は急に漕ぎ戻すのが難しいものです。船首と船尾に櫓を向かい合わせにつけ、側面に梶を取り付ければ、誰でも簡単に船を後退させる事ができるでしょう」「戦というものは、少しも退くまいと思って取り組むものであり、状況が悪くなればその時になって退くというのが習いである。始めから逃げる用意をして、何のいい事があるか。大体、門出において縁起が悪いぞ。逆櫓でも逆さまの櫓でも、あなた方の船には百でも千でも立てればいい。義経はもとのままの櫓でよい」これを聞いて梶原が「立派な大将軍というのは、進むべきところは進み、退くべきところは退いて、すべてをかけて敵を滅ぼす人をいうのです。片方にばかり偏っていては、猪のような武者であり、いい事ではありません」と言うと、義経は「猪か鹿かなどどうでもいい。ただ戦は、一気に攻めて勝った時が気持ちいいというものだ」言った。梶原を恐れて、侍たちは大声では笑わなかったが、互いに目配せをし、ささやき合った。この事により、義経と梶原が味方同士で戦になるのでは、と騒ぎになるほどであった。
 少しづつ日が暮れ夜になると、義経は「修理して、船も新しくなった事であるから、それぞれ酒肴を調えてお祝いをしたらどうだ」と、酒宴の準備をするように見せかけて、船に武具や兵糧米を積み込んだ。馬を乗せると、「すぐに船を出せ」と言ったので、船頭・舵取りが「この風は追い風ではありますが、普通以上の風でございます。沖ではさぞ強く吹いている事でしょう。出航は見合わせた方がいいのではないでしょうか」と言うと、義経は非常に怒った。「野山の末で死ぬのも、海川の底に溺れて死ぬのも、皆これらは前世での所業の報いである。海上に浮かんでいる時に、風が怖くてどうする。向かい風の時に出航しようと言うのこそ、間違いではないか。追い風が少し強過ぎるからといって、これほど大事な時に出航しないとはどういう事だ。船を出さないというやつは、射殺してしまえ」この命を受け、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信・伊勢三郎義盛が、弓に矢をつがえて片手に持ち、前に進み出て「何をぐずぐず申すか。大将軍の命令であるのだから、さっさと船を出せ。船を出さない者は、射殺すぞ」と言った。これを聞いた船頭・舵取りは「射殺されるのも同じ事、風が怖ければ、ただ船を漕ぎ続けて死ぬまでだ」と、二百艘中から、ただ五艘だけが出航した。残りの船は風が恐ろしいのか、梶原が恐ろしいのか、皆がとどまっている。義経は「人が船を出さない時こそ、とどまるべきではないのだ。風の弱い穏やかな日は敵も用心しているだろう。このような大風、大波の時に押し寄せてこそ、まさか攻めては来るまいと思っている敵を討つ事ができるのだ」と言った。五艘の船というのは、義経の船に始まり、田代冠者信綱、後藤兵衛父子・金子兄弟・淀江内忠俊という船奉行*8の乗っている船である。義経は「それぞれの船にかがり火を灯してはならない。義経の船のかがり火を目標とせよ。火の数が多ければ、敵も恐れて用心するだろう」と、夜を徹して船を走らせた。よって、三日かかるところを、わずか六時間ほどで進んでしまったのである。二月十六日の午前二時頃に摂津国の渡辺・福島*9を出航して、阿波の地へ着いたのは翌日の午前六時頃だった。

*1:さかろ

*2:やすつね:高階氏

*3:薩摩諸島・朝鮮・インド・中国

*4:清盛の次女で、故高倉上皇中宮安徳天皇の生母

*5:大阪城の辺りで、当時はここまで海が入り込んでいた

*6:兵庫県尼崎市神崎町の神崎川の河口

*7:瀬戸内海沿岸地方

*8:兵船の船頭・水夫などを指揮する役

*9:渡辺の西の辺りで、現大阪市北区堂島および福島区福島の辺