平家物語を読む131

巻第九 木曾最期

 義仲は信濃国を発った時から、巴*1・山吹という二人の侍女を伴っていた。二人のうち山吹は病のため、都に残った。巴は色白で髪が長く、極めて美しい顔立ちをしていたが、剛弓を引く世にも希な射手であり、騎乗でも徒歩でも、太刀・長刀を持っていれば鬼にも神にも立ち向かおうという、一人で千人分の兵士であった。荒馬を自由に乗りこなし、足場の悪い難所をも駆け下り、戦といえば、頑丈な鎧を身にまとい、大太刀・剛弓を持って、真っ先に敵の大将に向って行く。度々の手柄に肩を並べる者はいない。よって今回も多くの者が逃げる途中で討たれたが、七騎になっても巴は討たれずにいた。
 義仲は長坂*2を経て丹波*3へ向うとの噂が聞かれた。また、竜花越え*4を経て北国へ向うとの噂もあった。そういった噂が流れる中、当の義仲は今井四郎兼平の行方を聞こうと、都から瀬田の方へ向っていた。一方、今井四郎兼平は、八百騎で瀬田を固めていたが、わずか五十騎になるまで討たれ、印の旗を巻いて、主人を案じて都へ取って返す途中、大津の打出の浜で義仲に行き会ったのである。一町*5ほども離れているうちから二人は互いに気付き、すぐに馬を速めて寄り合った。義仲は今井の手を取って、「義仲は、六条河原で討死にするはずであったが、お前の行方が気になり、多くの敵の中を駆け割って、ここまで逃れてきた」と言い、今井四郎兼平も「お言葉、まことにありがたい事でございます。兼平も瀬田で討死にするはずでございましたが、殿の行方が気になる余り、ここまでやって参りました」と言った。義仲が「お前との約束は未だに朽ちてはいなかったのだ。義仲の勢は、敵により隔てられ、山林に散り散りになった。この辺りにもいるはずだ。お前が巻かせた旗を上げさせよ」と言うと、今井は旗を差し上げた。都から逃げてきた軍勢でもなく、瀬田から逃げてきた軍勢でもない者たちが、この今井の旗を見つけてすぐに駆け寄ってきた。その数は三百騎にも及んだ。義仲は非常に喜んで言った。「これだけの軍勢があれば、どうして最後の戦をせずにいられようか。ここにあふれているように見えるのは、一体、誰の軍勢か」「甲斐の一条次郎殿と存知ますが」「軍勢の数はどれほどのものか」「六千騎ほどと聞いています」「それならばよい敵になろう。同じ死ならば、立派な敵と馬を駆け合って、大勢の中で討死にしようではないか」と、義仲は真っ先に前へ進み出た。
 木曾左馬頭義仲のその日の装束は、赤地の錦の衣に、唐綾の布で綴った鎧を着て、鍬形を打った甲をかぶり、いかめしい作りの大太刀を帯び、その日の戦によって少数になった鷲の尾の石打羽ではいだ矢を肩から突き出すようにして背負い、漆を塗った上を藤蔓できつく巻いた弓を持って、「木曾の鬼葦毛」と評判の極めて太くたくましい馬に、金で縁取りをした鞍を置いて乗っていた。あぶみに両足を踏ん張って立ち上がり、大声で「昔は噂に聞いていた事であろう木曾の冠者を、今はその目で見るがよい。左馬頭兼伊予守・朝日将軍・源義仲であるぞ。甲斐の一条次郎よ、聞け。互いによい敵ではないか。義仲を討って、兵衛佐・頼朝に見せてみよ」と名乗ると、叫び声を上げて飛び出した。一条次郎が「たた今名乗ったのは大将軍であるぞ。皆の者、討ちもらすな。討て」と言ったので、敵は義仲を大軍勢の中に取り込め、我こそが討ち取ろうと進み出る。義仲の三百騎は、敵の六千騎の中を縦横無尽に駆け割り、後ろにつっと出てみると、五十騎ほどになっていた。先には土肥二郎実平が二千騎で待ち構えている。それも駆け割って出てみると、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、といくつもの軍勢が待ち構えている。それらを駆け割っては進み、駆け割っては進みとしているうちに、とうとうその勢は義仲を含む五騎にまでなった。
 その五騎にも巴は討たれずに残っていた。義仲に「お前は女なのだから、さっさとどこへでも行け。私は討死にしようと思っている。もし人手にかかって討たれなければ、自害するつもりであるから、『木曾殿は最後の戦に女を連れていたそうだ』などと言われるのは都合が悪い」と言われても、まだ逃げずに義仲に伴っていたが、余りに言われるので、「ああ、よい敵が現れないものか。最後の戦を殿に見せようではないか」と、馬の手綱を引いて待ち構えているところへ、武蔵国で大力と評判の恩田八郎師重が三十騎ほどで出てきた。巴はその勢の中へ駆け入り、恩田八郎の馬に自分の馬を押し並べてむんずと組んで相手を引きずり落とし、自分の馬の鞍の前輪に押し付けて、相手が少しも身動きできないようにしてから、首をねじ切って捨ててしまった。その後、武具を脱ぎ捨て、巴は東国の方へ逃げていった。手塚太郎は討死にし、叔父の手塚の別当も逃げた。
 こうして五騎だった義仲の勢は、義仲と今井四郎兼平の二騎になった、義仲が「日頃は何とも思わなかった鎧が、今日は重くなったようだぞ」と言う。今井四郎は「お身体もまだお疲れになってはいませんし、御馬も弱ってはいません。どういう訳で大鎧を重く感じられるのでしょうか。それは殿に味方の軍勢がいらっしゃらないので、気後れしてそのように思われるのでしょう。兼平一人だけではありますが、一人だとしても千騎の武者がいるとお思い下さい。矢が七本ありますので、敵をしばらく防ぐ事はできましょう。あそこに見えますのが、粟津の松原*6でございます。あの松の中で御自害くださいませ」と言うと、鞭を打って馬を走らせた。すると、また新しい敵の勢が五十騎ほど現れた。今井四郎が「殿はあの松原へ向って下さい。兼平がこの敵を防ぎましょう」と言っても、義仲は「都で討死にするはずだった義仲が、ここまで逃れてきたのは、お前と一箇所で死のうと思っての事だ。別々の場所で討たれるより、同じ場所で討死にしようではないか」と、今井の馬に自分の馬を並べて今にも駆け出そうとする。今井四郎は馬から飛び降り、主人の馬の口に取り付いて言った。「武士という者は、平素どんなに手柄を立てていたとしても、最後の時に失策をすれば、末代までの恥となります。お身体はお疲れになっています。後に続く味方の勢はおりません。敵に押し隔てられて、取るにも足らぬ人の従者に組み落とされて討たれ、『あれほど日本国で有名な木曾殿を、この私の従者が討ち取ったぞ』などと言われる事こそが悔しいのでございます。どうかあの松原へいらしてください」これを聞いて、義仲は「それならば」と、粟津の松原へ向ったのだった。
 今井四郎兼平はただ一騎で、五十騎の中へ駆け入り、あぶみに踏ん張って立ち上がると大声で名乗りを上げた。「日頃からその評判を聞いていただろうが、今はその目でよく見るがいい。木曾殿の乳兄弟、今井四郎兼平、年は三十三歳になる。そういう者がいるという事は鎌倉殿でさえもご存知であるぞ。兼平を討って鎌倉殿のお目にかけてみよ」今井は射残していた八本の矢を、続けざまに射た。死んだかどうだかはわからないが、瞬く間に八騎が射落とされた。その後は刀を抜いて、あれに駆け合い、これに駆け合い、引き切って回るので、正面から立ち向かおうとする者はいない。今井は敵の首を数多討ち取った。敵はただ、「射落とせ」と、軍勢の中に今井を取り込め、雨のように矢を射たが、頑丈な鎧を着ていたので矢が貫通する事はなく、鎧の合わせ目を射られる事もなかったので、負傷すらしなかった。
 義仲はただ一騎で、粟津の松原へ向っていたが、一月二十一日の夕暮れ時であり、薄氷が張っていた上に、泥が深い田がある事も知らずに、その中へ馬をざっと入れてしまい、馬の頭さえも見えなくなってしまった。蹴っても打っても、馬は動かない。今井四郎の行方を気にして振り返った時、その顔面を、義仲を追っていた三浦の石田次郎為久が十分に引いた弓でふつと射た。重傷であったので、甲を馬の首筋に当てるようにうつ伏したところを、駆けつけた石田の従者二人がついに首を取ってしまったのである。太刀の先に貫いた首を、高く差し上げ、大声で「日頃から日本国で有名な木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取ったぞ」と名乗るのを、戦をしていた今井四郎も耳にした。「今となっては誰をかばうために戦をするというのか。これをよく見よ、東国の殿たち、日本一の剛者の自害である」と言うと、今井四郎は太刀の先を口に含み、馬より逆さに飛び降り、太刀に貫かれて死んだ。こうして粟津の戦は終わりとなったのである。

*1:今井兼平の妹、樋口次郎の娘などの説がある

*2:京都市北区鷹峯から釈迦谷山・城山を経て杉坂に至る山道

*3:京都市西京区大枝の老の坂から亀岡を経て播磨国に至る道

*4:りゅうげごえ:現京都市左京区大原から大津市竜花を経て北陸へ至る道

*5:約109メートル

*6:大津市膳所粟津の辺