平家物語を読む127

Tufted Titmouse

巻第八 法住寺合戦*1

 後白河法皇の味方についた近江守・仲兼*2が五十騎ほどで法住寺殿の西の門を警固していると、そこへ近江源氏の山本冠者義高が急ぎやって来た。「一体、あなた方は誰を守ろうとしているのか。法皇天皇も他の場所へ移動されたと聞いたぞ」と言う。「それならば」と、仲兼らは敵の軍勢の中へうめきながら飛び込むと、散々に戦って中を通り抜けた。五十騎は討たれて八騎になった。この八騎の中に河内の草香党*3の法師武者で加賀房という者がいる。白葦毛で極めて勢いが強い馬に乗っていた。「この馬は余りに危険で、乗りこなせるとは思えません」と言うので、主人の仲兼は「そうであるなら、私の馬と取り替えよ」と、栗毛で尾の先が白い馬を加賀房に与えた。互いに馬を乗り換えると、仲兼率いる八騎は根井小野太が二百騎ほどで防戦していた川原坂の軍勢の中へうめいて駆け入った。そこで八騎のうち五騎が討たれ、とうとう仲兼を含む三騎になった。加賀房は自分の馬が危険であるからと主人の馬に乗り換えたのだが、そこでついに討たれたのだった。
 仲兼の家来に、信濃次郎蔵人仲頼という者がいた。敵に隔てられて主人である仲兼の行方がわからずにいたが、栗毛で尾の先が白い馬が乗り手のないまま走り出たのを見て、雑役に従事する者を呼び、「この馬は仲兼殿の馬と思われる。既に討たれてしまったのだ。死ぬ時は同じ場所で死のうと約束したのに、別々に討たれるとは悲しいことだ。どの軍勢の中へ入っただろうか」と尋ねた。「川原坂の軍勢の中へ駆け入られました。あの軍勢の中から御馬も出てきました」と答えるのを聞き、仲頼は「それではお前はすぐにここから帰れ」と、最後の様子を故郷へ伝えるように命じ、自身はただ一騎で敵の中へ駆け入った。大声で「敦実親王*4より九代の子孫、信濃守・仲重の次男、信濃次郎蔵人仲頼、二十七歳。我こそはと思う者は集まれ、相手をしよう」と名乗りを上げ、四方八方に駆け回り激しく敵の中で戦ったが、敵をたくさん討ち取った後、ついに討ち死にしてしまった。仲兼はこの事をつゆ知らず、兄の河内守と従者一騎を連れて、三騎で南へ向って逃げていたところ、戦を恐れて都を離れた摂政・藤原基通殿に木幡山*5で追い付いた。仲兼らを木曾義仲の余党かと思った摂政殿が、車を止めて「何者だ」と尋ねると、「仲兼」「仲信」と名乗る。「何という事だ、北国の凶徒かなどと思っていたのに、感心な事である。近くに寄って、守護につきなさい」と言われたので、仲兼らはかしこまってこれに従った。宇治の富家殿*6まで摂政殿を送ると、すぐに仲兼らは河内へ向った。
 翌十一月二十日、木曾義仲が六条川原に立って、前日に切った首を掛け並べて数えてみると、その数は六百三十に及んだ。中には明雲大僧正・円慶法親王の首もあった。これを見て、涙を流さない者はいない。義仲は総勢七千騎で、馬の鼻を東へ向けると、天に響き地を揺るがすほどの大声で喚声を三度上げた。都の中はまた騒がしくなったが、これは勝利を喜ぶ声であったと聞く。
 故信西*7の息子である宰相・長教は、後白河法皇のいらっしゃる五条東洞院にある里内裏を訪問して、「法皇にお伝えする事がある。開けて通せ」と言ったが、武士たちはこれを許さない。どうしようもないので、ある小屋の中でにわかに髪を剃って法師になり、法衣を着て、「こうなった上は何が問題だというのか、中に入れよ」と言うと、対面を許された。法皇に今回討たれた主な人々の事を詳細にお伝えすると、法皇は涙をはらはら流されて、「明雲は非業の死を遂げるべき者とは思いもしなかったものを。きっと最期を遂げるはずだった私の命に代わってくれたのであろう」とおっしゃった。
 一方、木曾義仲は家来・従者を集めて評議を行っていた。「そもそも義仲は、一天下の主たる君との戦に勝った。この上は天皇になろうか、それとも法皇になろうか。天皇になろうと思うと、童子の髪型にするのは具合がよくない。法皇になろうと思うと、坊主頭になるのもおかしいだろう。よしよしそうであるなら、関白になろう」と言うと、文書を書く役を負っていた大夫房・覚明がこう言った。「関白は藤原鎌足の末裔である藤原氏がなられています。殿は源氏でいらっしゃいますから、それこそ不可能でしょう」「それならば仕方がない」と、義仲は院の御厩*8の長官に無理やりなって、丹後国の国務を執り行った。出家した上皇法皇という事、天皇はまだ元服をされていないので童子の髪型であった事を知らないとは、情けない事である。義仲は前関白・藤原基房殿の姫君を娶り、無理やり基房殿の婿になった。
 十一月二十三日、三条中納言・朝方卿を始めとして、四十九人の公卿・殿上人がその官職を奪われて閉じ込められた。平家の時は四十三人だった*9が、今度は四十九人であったので、これは平家の悪行を超えている。
 その頃、義仲の無法な振る舞いを鎮めようと、鎌倉の前兵衛佐・頼朝は弟の蒲の冠者・範頼と九郎冠者・義経を都へ向わせていた。が、義仲が既に法住寺殿を焼き払い、法皇天皇を捕らえて、天下が暗闇になったと耳にした範頼と義経は「軽率に都へ向って戦をする訳にもいかない。すぐに鎌倉へ事の次第を伝えよう」と、考えていた。この時、範頼と義経尾張国熱田神宮の大宮司*10のもとにいた。そこへ、都から院の御所の北面の詰所に勤める宮内判官・公朝*11、藤内左衛門時成が尾張国へ急ぎやって来た。都での事を伝えるためである。これを聞いた義経が「ここは宮内判官が鎌倉へ向うべきです。詳細を知らない私たちが使者では、反問された時に不審が残りますから」と言ったので、公朝は急ぎ鎌倉へ向った。戦を恐れた雑役の者たちが皆、逃げてしまっていたので、公朝は十五歳になる息子の公茂*12を従えていた。鎌倉に着いてからこの事を伝えると、頼朝は非常に驚いた。「まず鼓判官・知泰が非常識な事を言い出したため戦が起こり、御所を焼き、延暦寺の座主や三井寺の長官までも滅ぼしてしまったとはけしからぬ事だ。知泰とは、天皇に対して何と不忠な者か。このような者を召し使わずにいらっしゃったなら、大事件がここまで続く事もなかったものを」と、都へ急ぎの使者を送って伝えたところ、知泰は弁解しようとして夜も昼も休む事なく馬を走らせて鎌倉へやって来た。頼朝が「あいつには会うな。相手をするな」と言っても、毎日のように頼朝の館を訪れる。だが、終に顔を合わせる事ができないまま、知泰は都へ戻っていった。その後は伏見稲荷*13の辺りでただ単に命をつなぐように日々を過ごしたと聞く。
 頼朝が弟たちを都に向わせた事を耳にした木曾義仲は、平家へ使者を送った。「都へお戻りください。一つになって東国を攻めましょう」と言われて、宗盛殿は喜んだが、時忠・知盛は「たとえ世も末とはいえ、義仲の仲間に引き入れられて、都へ帰る事など、とんでもない事です。こちらには安徳天皇と三種神器があるのですから、甲を脱ぎ弓を外して、降参するためにこちらへ来るようにと言うべきです」と言う。よって、そのように返事をしたが、義仲がこれに答える事はなかった。前関白・藤原基房殿が義仲を呼んで、「清盛公はあれほどの悪事を行った人であったが、世にも希な善事を行ったので、世の中を二十年以上も平穏無事に保つ事ができたのである。悪行ばかりで世の中を保つ事はできないぞ。特別な理由もなく官位を奪った人々を皆、許すべきだ」という事を伝えると、まったく荒々しい野蛮な男であったが、義仲はこれに従って、人々に官位を戻したのだった。基房殿の三男は師家といい、当時はまだ中納言中将であったが、義仲の計らいにより、大臣摂政になった。ちょうど大臣の位に空きがなかったので、内大臣であった徳大寺左大将・藤原実定公の位を借りて内大臣にしたのである。世間の噂はすぐに広まるものであるから、この新摂政を、人々は遣唐使として大陸に渡り灯台鬼となった迦留大臣にかけて、「借るの大臣」と呼んだ。
 十二月十日、後白河法皇は五条内裏を出られて、大膳大夫・業忠の宿所で六条の北、西洞院の西にある六条殿へと向われた。十三日には歳末の仏事が行われた。そのついでに位階を授ける儀式が行われ、義仲は思う通りに人々の官位を定めた。平家は西国、頼朝は東国で、義仲は都で事を強行した。前漢後漢の間に、王莽*14が帝位につき、十八年、国を治めた時のようである。四方の関はすべて閉じており、国家への租税も納められず、個人の年貢も入ってこなかったので、都中の人々は身分の高い人も低い人も、ただ少ない水の中に取り残された魚に他ならなかった。不穏なままにこの年も終わりを迎え、寿永も三年になった。

―巻第八 終わり―

巻第八の月日




*画像の鳥は、フィーダーに来るTufted Titmouse(エボシガラ)です

*1:ほうじゅうじかっせん

*2:宇多源氏

*3:中世、生駒山西麓の地に住んでいた武士

*4:あつみのしんのう:宇多天皇の皇子

*5:こはたやま:現京都府宇治市木幡にあり、関山とも言う

*6:ふけ:宇治平等院の西にあった藤原忠実の別邸

*7:しんせい:藤原通憲

*8:みうまや:院の厩を管理する役職

*9:参照:巻第三「大臣流罪

*10:頼朝の母は大宮司・季範の娘だった

*11:きんとも

*12:きんもち

*13:京都市伏見区にある

*14:おうもう