平家物語を読む122

巻第八 猫間

 都へ戻った康定が後白河法皇の御所を訪ね、関東での様子を詳しく伝えると、法皇も感激なされ、公卿・殿上人も皆が会心の笑みを浮かべた。兵衛佐・頼朝はこのように立派であるというのに、都の守護を行っている木曾の左馬頭・義仲はというと、立ち振る舞いや話し方が余りにも洗練されていない。二歳から三十歳まで信濃国の木曾という山里に暮らしたのであるから、それも仕方のない事である。
 ある時、猫間*1に邸を構える中納言・藤原光隆卿という人が、相談しなければならない事があり義仲を訪ねた事があった。義仲の従者たちが「猫間殿がお目にかかってお話ししたい事があると、いらしています」と伝えると、義仲は大笑いして「猫が人にお目にかかりたいというのか」と言う。従者が「これは猫間の中納言殿とおっしゃる公卿でいらっしゃいます。猫間というのは宿所の名前と思いますが」と言うと、義仲は「それならば」と言って対面したという。それでも「猫間殿」とは舌が回らず、「猫殿がせっかく来たのだから、食事の用意をせよ」と言った。武士が一日三食なのに対して、貴族は二食で昼食の習慣がない事を義仲は知らないのである。よって、これを聞いた光隆卿が「今どき食事などと、とんでもない」と言うと、義仲は「食事時に来られたというのに、どうしてそのままにしておけようか」と無理に勧めた。義仲の育った信濃は山国なので、魚介類は塩漬けのものが多かった。よって、塩気のない魚介類を「無塩*2」と呼んでいたため、義仲は何でも新しいものは「無塩」というと思い込んでいるようで、「ここに無塩の平茸がある。早く早く」と急がせたとも聞く。給仕を務めるのは根井小弥太*3である。田舎風の蓋つきの椀の深くくぼんでいるものに、飯をうずたかくよそい、副食を三種そろえて、平茸の汁と共に光隆卿の前へ持って来た。義仲の前にも同じものが置かれると、義仲は箸を取って食べ始めた。光隆卿が蓋つき椀の余りの見苦しさに、箸に手をつけずにいると、義仲が「それは義仲が仏事に使う特別の食器であるぞ」と言う。食べないのも返って失礼だろうと思ったので、光隆卿は箸を取って食べるふりをした。これを見た義仲は「猫殿は少食でいらっしゃるのか。評判の『猫おろし*4』をされているな。かき込んで食べなされ」と光隆卿を責めた。光隆卿はこのような事から興ざめし、相談しようと思っていた事を一言も口にする事なく、すぐに急いで帰ってしまった。
 またこのような事もあった。義仲が「官位を与えられた者が、直垂*5で仕官するなど、あってはならない事だ」と、初めて狩衣*6で正装をしたが、烏帽子のかぶり方から袴のはき方まで、何をとっても洗練されておらずみっともない。そうではあるが、体をかがめて車に乗り込んだ。鎧を着て、矢を背負い、弓を持って馬に乗る姿とは、似ても似つかぬぶざまな姿であった。牛車は前大臣・平宗盛公のものであり、牛飼いもそうである。世の中の動向に従うのが人の常であるので、捕らわれた牛飼いは今ではこうして義仲に使われていたのだが、余りに心外な事だったので、飼っていた牛の中でも特に優れたものを車につなぎ、出発の際に鞭を当てたものだからいいはずがない。勢いよく飛び出したその牛のせいで、車の中の義仲は仰向けに倒れた。蝶が羽を広げたように左右の袖を広げたまま何とか起き上がろうとしているが、どうしても起きる事ができない。義仲は「牛飼い」という呼び名を知らないので「おい子牛役、おい子牛役」と呼んだが、牛飼いは車を走らせろと言われたのだと思い、そのまま更に五、六町も車を走らせた。今井四郎兼平が馬を全速力で走らせて追いつき、「どうして御車をこんなに走らせるのだ」と叱りつけると、牛飼いは「牛の勢いが強すぎて、鼻が怖いのです*7」と答える。が、牛飼いも仲直りしようと思ったのだろう、「御簾の脇にある板をくり貫いた場所につかまってください」と言うと、義仲は言われた場所にがっちりと手を掛けて「ああ、何とかなりそうだ。これは牛役の思いつきか、それとも前の主人の流儀か」と尋ねた。さて、後白河法皇の御所に着いた。車から牛を外させ、義仲が後ろから降りようとすると、都の雑務の役人に仕えている者が「車は、乗られる時は後ろから乗るものですが、降りる時は前から降りるものでございます」と言う。が、義仲は「どうして車であるからといって、素通りする事ができようか」と言って、ついには後ろから降りてしまった。その他にも滑稽な事は多かったが、義仲を恐れて口にする人はいなかった。

*1:七条坊城壬生の辺り

*2:ぶえん

*3:信濃国佐久郡根々井の住人

*4:猫が食べものを残す事

*5:ひたたれ:武士の日常着

*6:かりぎぬ:貴族の略装だが、武士には正装とされた

*7:牛の鼻につけた綱で制御を行う