平家物語を読む132

巻第九 樋口被討罰*1

 今井四郎兼平の兄である樋口次郎兼光は、源十郎行家を討とうとして、河内国の長野城*2へ向ったが、そこでは敵を討ち逃した。紀伊国の名草郡*3にいると聞き、すぐに後を追って名草に出向いたが、今度は都で戦が起こったと聞いて急ぎ都へ向った。その途中、淀の大渡の橋*4で、今井四郎の下人にばったり行き会った。「ああ残念だ、これはどちらへ向うところでいらっしゃいますか。殿は討たれてしまいました。今井殿は自害です」と下人が言うのを聞き、樋口次郎は涙をはらはらと流した。「皆の者、よく聞きたまえ。主君に心を尽くそうと思う人々はここからどこへでも行き、出家して乞食の行*5を保ち、主君の後世を弔い申し上げよ。兼光は都へ行って討死にし、冥途にて主君に対面し、今井四郎にもう一度会おうと思っている」五百騎の軍勢はあそこで留まり、ここで留まりと、少しづつ離れて行き、城南離宮の南門*6を出る頃には、わずか二十騎ほどになっていた。
 樋口次郎が今日にも都へ入るという噂が流れると、武士たちは朱雀大路と七条大路の交差点・羅城門の辺り*7へ急ぎ向った。樋口の軍勢に茅野太郎という者がいた。羅城門へ向ってくるたくさんの敵の中へ駆け入り、大声で「この中に、甲斐の一条次郎殿の軍勢の人はおられるか」と問いかけると、敵は「どうしても一条次郎殿の軍勢を相手に戦をするというのか。誰とでも戦え」と言って、どっと笑い声を上げた。笑われて、茅野は名乗った。「こう申す者は、信濃国諏訪上の宮の住人、茅野大夫光家の子、茅野太郎光広である。一条次郎殿の軍勢としか戦わないという意味で尋ねたのではない。弟の茅野七郎がその軍勢に加わっているのだ。光広の二人の子供は信濃国にいるが、『ああ、我が父は立派に死んだのだろうか、見苦しく死んだのだろうか』と嘆くであろうから、弟の七郎の前で討死にし、最後の有様が子供に確かに伝わるようにしたいと思うからだ。敵をえり好みする訳ではない」そして、あれに掛け合い、これに駆け合い、敵を三騎切って落とし、四人目に当たる敵に馬を押し並べて組んだままどうと馬から落ち、刺し違えて死んだ。
 樋口次郎は、武蔵七党の一つ、児玉党と縁故を結んでいたので、児玉党の人々は話し合いをして、「武士という者にとって、誰も彼もと広く交際しようとするのは、万が一の事が起こった時、一時的な安全を得て、しばらく生き延びようと思うためである。よって、樋口次郎が我ら児玉党と縁故を結んだのも、きっとそう思っての事であろう。今回の我が党の勲功の賞には、樋口次郎の助命を願い出よう」と、樋口次郎に使者を送った。「日頃は木曾殿の家来の、今井・樋口として有名でしたが、今は木曾殿も討たれました。どうして迷う事がありましょうか。我が党へ降参なさりませ。勲功の賞として、命だけはお助けいたしましょう。出家をして、木曾殿の後世を弔いなさいませ」と言われ、樋口次郎は評判の高い武士ではあったが、運に見放されたのだろう、児玉党へ降参したのだった。この事は義経に伝えられた。義経後白河法皇へ願い出て、いったん罪を許される事になったのだが、そばにいた公卿・殿上人・上級の女官たちが「義仲が法住寺殿へ押し寄せて喚声を上げ、法皇をも苦しませた上に、火をかけて多くの人々を滅ぼした際には、あそこでもここでも今井・樋口という声ばかり聞いたではないか。これらの者が助命されるとは悔しい事である」と、口々に言ったので、樋口次郎は再び死罪と定められたのだった。
 一月二十二日、新摂政・師家殿は位を奪われ、元の摂政・藤原基通殿が復職した。わずか六十日のうちに摂政を替えられた師家殿にとって、それは最後まで見る事のないまま目覚めてしまった夢のようである。昔、粟田の関白*8は、関白昇進の後、その位に就いていたのはわずか七日間であった。今回は六十日と言っても、その間に節会も地方官を任命する儀式も行われたので、思い出がないという訳でもない。
 一月二十四日、木曾義仲並びにそれ以外の者五人の首が、大路を引き回された。樋口次郎は降参した人間であったが、頻りにお供をしたいと願い出たため、藍を用いて模様を摺りだした粗末な衣に立烏帽子で引き回された。翌二十五日、ついに樋口次郎兼光も切られた。範頼・義経はいろいろと説得を試みたが、「今井・樋口・楯・根井といって、木曾の四天王の一人である。これらをなだめられなければ、後難を招く事になる」と、特に法皇からの指図があって、切られたのだと聞く。伝え聞くところによると、秦国が衰えて、諸侯が蜂起した時、先に咸陽宮に入った劉邦は、項羽が後から来る事を恐れて、「美人でも人の妻ならば犯すな」、「金銀・珠玉を盗むな」と軍律を厳しくした上に、常に函谷の関*9を守り、徐々に敵を滅ぼして、ついに天下を治めるに至ったという。よって、木曾義仲も、まず都へ入ってからは、もし頼朝の命に従っていたならば、あの劉邦の計略にも劣るところはなかったのではないか。
 一方平家は、去年の冬の頃から讃岐国屋島の磯を出て、摂津国の難波潟*10へ渡り、旧都・福原に居住して、西は一の谷*11を城郭として固め、東は生田の森*12を城砦の正面の入口と定めていた。その一の谷か生田の森までの間、福原・兵庫*13・板宿*14・須磨*15にこもる軍勢は、山陽道八ヶ国*16南海道六ヶ国*17、合わせて十四ヶ国を討ち従えて集めた兵士であった。その数は十万騎に上ると聞く。一の谷は、北は山、南は海、入口は狭くて奥が広い。岸壁が高く、まるで屏風を立てているようである。北の山際から南の海の遠浅まで、大石を積み上げ、大木を切って逆さに立てた。水が深いところには大船を並べて、垣根のように楯を並べ、城の正面に高く築いたやぐらには、一人で千人に当たるとも評判の四国・九州の武者たちが、甲冑・弓矢を帯びて、雲霞のごとく並びあふれていた。やぐらの下には、鞍を置いた馬が何重にも並んでいる。常に大太鼓を打っては、喚声を上げた。十分に引いた弓は、胸の前にかかる半月のようで、三尺の剣の光は、腰の間に秋の霜を横たえているかのようである。高いところに数多く立てられた赤旗が、春風に吹かれて天に翻り、まるで火炎が燃え上がるかのようだった。

*1:ひぐちのちゅうばつせられ

*2:大阪府河内長野市内にあった

*3:和歌山市

*4:宇治川・木津川の合流点よりやや下流にあった橋

*5:こつじき:衣食住に関する欲を断ち切る修行「頭陀」の行十二種類のうちの一つで、人家の前に立って食を乞い求めること

*6:京都市伏見区にあった

*7:朱雀大路の南端

*8:藤原兼家の三男の道兼

*9:河南省の北西部にある関所

*10:大阪湾の沿岸

*11:現神戸市須磨区西部

*12:神戸市中央区にあった森

*13:現神戸市兵庫区に流れていた旧湊川の西地域

*14:現神戸市須磨区板宿

*15:現神戸市須磨区

*16:播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門

*17:紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐