平家物語を読む159

巻第十 三日平氏

 舎人の武里も続いて海に入ろうとしたところ、滝口入道に止められてしまった。「どうして情けなくもご遺言に背こうとするのか。何とも情けない。今はただ、主君の後世を弔いなさい」と涙ながらに諭されたが、後を追えなかった悲しさに、主君の死後の供養を思う事もできず、舟底に倒れ伏してうめき叫んだ。昔、悉達多*1太子が出家のために都を出られた時、途中までつき従った舎人・車匿*2が、主君と共に出家する事を望んだが許されず、名馬・こんでいを与えられて、王宮に帰った時の悲しみも、これには適わないように見えた。しばらくの間、舟を回して、浮き上がってくる事もあるのではと見ていたが、三人は共に深く沈み、もう現れる事はなかった。いつしか武里が、「亡くなった人々の霊が極楽浄土へ往生しますように」と経を読み、念仏を唱え始めたのも気の毒な事であった。
 そうしているうちに、夕日が西に傾き、海上は暗くなってきた。名残は尽きなかったが、虚しい思いで舟を漕ぎ帰途に着いた。海峡を渡る舟の櫂から落ちる雫と、滝口入道の袖から伝う涙とは、どちらがどちらか分からない程である。滝口入道は高野山へ帰り、武里は泣く泣く屋島へ向かった。弟である新三位中将・資盛殿に維盛卿の手紙を出して渡した。「ああ辛い。私が頼りにしていたほど、あの方が私を思ってはくださらなかった事が残念だ。池の大納言のように、頼朝に心を通わせて都へ向かわれたのだろうと、宗盛殿と二位殿は、私たちにもよそよそしくされていたというのに、まさか那智の沖で身投げされていたとは。それならば私もつき従って、同じ場所で海の底に沈むべきであるのに、それも叶わず、別々の場所で死ぬ事になるのは悲しい。伝言はなかったか」「伝えよとおっしゃったのは『西国で左近衛中将・清経が死にました。一の谷では備中守・師盛が討たれました。私までこのような事になれば、あなた方がどれほど心細く思われるだろうと、それだけが心苦しい事です』」と、唐皮・小烏の事までも、詳細に伝えると、「今は私も、生き永らえたいとはとても思えない」と、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いてしまった。そう思うのももっともだろうと、気の毒で仕方がない。資盛卿は兄の故維盛卿とよく似ていたので、見る人は皆が涙を流した。侍たちも、集まってただ泣くより他はなかった。大臣・宗盛公も二位殿も、「維盛卿は池の大納言のように、頼朝に心を通わせて、都へ行ったのだと思っていたのに、そうでなかったとは」と、今更ながら嘆き悲しんだ。
 元暦元年*3四月一日、鎌倉の前兵衛佐・頼朝は正下の四位に任じられた。もとは従下の五位であったから、五段階も位を跳び越えた事になる。素晴らしい事であった。これは、左馬頭・木曾義仲を追討した褒賞であると聞く。
 四月三日、崇徳院*4を神とあがめようという事で、昔、保元の戦があった大炊御門の東のはずれに社が建てられ、遷宮が行われた。すべて後白河法皇のお計らいであり、内裏側には知らされなかったと聞く。
 五月四日、池の大納言*5が関東へ向かった。頼朝が「あなたをおろそかになど思ってはおりません。今の私があるのは、あなたの母でいらっしゃる故池殿*6のお陰だと存じております。そのご恩を、大納言殿にお返ししましょう」と、何度も文書でもって伝えてきても、平家一門とも別れて都にとどまっていた池の大納言は、「頼朝だけがそう思ったとしても、それ以外の源氏の人々はどう思っているのだろうか」と、不安で仕方がなかったのだが、再び鎌倉から「故池殿にお会いするつもりで、あなたにすぐにもお目にかかりたい」と言ってきたので、重い腰を上げたのである。
 池の大納言に仕える侍に、弥平兵衛・宗清*7という者がいる。先祖代々仕えてきた家来の中でも随一の者だったが、付き従って鎌倉へ行こうとはしなかった。「どうしてか」と問うと、「今度のお供はお断りするつもりです。なぜなら、主君はこうして無事に暮らしていらっしゃいますが、平家の君達は西海の波の上に漂っていらっしゃるのです。その事を思えば心苦しく、いまだ安心する事もできませんので、気持ちがもう少し落ち着いてから、後を追いかけるつもりです」と答える。池の大納言は苦々しい思いで言った。「平家一門から別れて都に残った事は、自分の事ながら立派だとは思わないが、さすがに命が惜しかったので、やめた方がいいと思いながら都にとどまってしまったのだ。そうした以上は、鎌倉へ行かない訳にもいかない。長旅に赴くというのに、どうして伴わないなどというのか。鎌倉行きを受け入れがたく思うならば、一門から別れ都に残った時に、どうしてそう言わなかったのか。大事も小事もすべてお前には相談したというのに」これを聞いて、宗清は居住まいを正し、かしこまって言った。「身分の高い人にとっても低い人にとっても、命ほど惜しいものがあるでしょうか。たとえ世間は捨てる事ができても、命を捨てる事はできないと言います。都に残られた事を悪いと言っているのではありません。兵衛佐・頼朝も生きていても甲斐のない命を助けられたからこそ、今日ではこのような幸運にも巡り合ったのです。流罪となられた時には、故池殿の命により、近江国の篠原の宿*8まで送っていきました。『その事などを今も忘れてはいない』と聞いていますので、お供をして鎌倉に行ったならば、きっと贈り物、酒や食事などでもてなしてくださるでしょう。それを思っても、心苦しいのです。西国にいらっしゃる君達、または侍たちからの話しを伝え聞くにつけても、つくづく気が重く、今度ばかりはここにとどまるつもりです。主君は平家一門から別れてこのように都に残っておられる以上は、鎌倉に足を運ばれない訳にはいかないでしょう。長旅に赴かれる事は、本当に気がかりではありますが、敵を攻めに行くというのであれば、先陣に立とうとも思いますが、今度は私が行かずとも、お困りになる事はないでしょう。兵衛佐が尋ねたならば『病を患って』とおっしゃってください」これを聞いていた心ある侍は皆が涙を流した。池の大納言もさすがに恥ずかしく思ったが、だからといってとどまる訳にもいかないので、やがて都を発った。
 五月十六日、鎌倉へ着いた。頼朝は急ぎ対面して、まず「宗清はお供しているか」と聞いた。「ちょうど病を患いまして、来ておりません」と池の大納言が言うと、「どうした、何の病だというのか。何か思惑があっての事であろう。昔、私が宗清の所にいた時、宗清は何かにつけて親切に扱ってくれた。今も忘れずにいる。必ずお供をして来るだろう、すぐにも会いたいなあなどと恋しく思っていたというのに、恨めしくも来なかったとは」と言った。頼朝は命令書をたくさん作って、馬・鞍・武具など、ありとあらゆるものを宗清に与えようと用意していた。よって大名たちも我も我もと贈り物を用意していたのだが、宗清が来なかったため無駄になり、不本意な事だと思わずにはいられなかった。
 六月九日、池の大納言は関東を発ち都へ向かった。頼朝は「しばらくこのまま鎌倉にいらっしゃいませ」と言ったのだが、池の大納言は「都が気がかりなのです」と、急ぎ帰ったのである。池の大納言については、庄園・私領に一つの間違いもないようにという事と、更に、もとの大納言へ復位*9されるべきだという事が、後白河法皇へ伝えられた。鞍をつけた馬が三十頭、つけていない馬が三十頭に加えて、鷹や鷲の羽・黄金・染物・巻いた絹織物のようなものが入れられた三十の長持ちが贈られた。頼朝がこのようにもてなすので、大名も小名も我も我もと贈り物を渡した。馬だけでも三百頭に及んだ。池の大納言は命拾いをしただけではなく、富までもつけて都へ帰ったのである。
 六月十八日、肥後守・貞能*10が伯父である平田入道・貞次*11を大将として、伊賀・伊勢両国の住人たちと近江国へ出撃したので、近江の源氏の血筋を引く者たちが立ち上がり、戦となった。伊賀・伊勢国の住人たちは一人残らず討たれた。これらは平家に代々恩のある人々であり、昔の縁故を忘れずにいた事は感心であるが、このような事を思い立つとは身の程知らずであった。三日平氏とはこの事である。
 さて、小松の三位中将・維盛卿の北の方は、風の便りに聞く夫の噂も絶えて久しいので、何があったのかと気がかりに思っていた。月に一度は必ず届いていた手紙を待っているうちに、春も過ぎ夏も盛りになった。「三位中将は、今は屋島にもいらっしゃらないと言う人がいる」と聞き、気になる余り、何とかして屋島へ使者を行かせたのだが、急いで帰って来る気配もない。夏が過ぎ、秋になった。七月の末に、ようやく使者が帰って来た。北の方が「それでどう、どうでしたか」と問うと、「『三月十五日の明け方に屋島を出られ、高野山へ向かわれて、そこで出家されてからは、熊野を参詣され、後世の事をよくよく祈られてから、那智の沖にて身投げされました』と、お供していたという舎人の武里は話しておりました」と言う。北の方は「やはりそうだった。そうかもしれないと思っていたのです」と、衣を被って泣き伏してしまった。若君・姫君も声を出して泣き悲しんだ。若君の乳母の女房が泣きながらも、「今更、驚いてはなりません。日頃から覚悟されていた事です。本三位中将・重衡殿のように、生け捕りにされて都へ戻ったというのならば、心苦しい事ではありますが、高野山にて髪を下ろし、熊野を参詣して、後世の事をよくよく祈られて、邪念を捨てて安らかな心で死に臨まれた事は、嘆きの中の喜びです。ですから、ご安心なされてもいい事なのです。今はたとえ岩や木の間ででも、幼い人々を育て上げようとお思いください」と慰めたが、悲しみに耐えて生き続けていく事ができるようには見えなかった。北の方はやがて髪を下ろし、慣例通りに仏事を営み、維盛卿の後世を弔った。

*1:シッダルタ:釈迦が出家する前、王子だった時の名

*2:しゃのく

*3:寿永三年四月に改元

*4:第75代天皇

*5:平頼盛

*6:忠盛の後妻で、平治の乱後、頼朝の命乞いをした

*7:むねきよ:桓武平氏

*8:滋賀県野洲野洲町にあった

*9:寿永二年八月、平家一門の官位が奪われた時、池の大納言も大納言を解任されていた

*10:さだよし:桓武平氏で、筑後守・家貞の子

*11:貞能の兄の家次が正しいか