平家物語を読む130

巻第九 河原合戦

 義仲方が戦に敗れ、戦の経緯を報告する記録が飛脚で鎌倉へ届けられた。鎌倉殿はまず使者に、「佐々木四郎高綱はどうであったか」と尋ねたという。「宇治川の先陣でございます」と答えたので、記録を開いて見てみると、そこには確かに「宇治川の先陣・佐々木四郎高綱、二陣・梶原源太景季」と書いてあった。
 宇治・瀬田共に戦に敗れたと聞くと、義仲は最後の暇請いをしようと、後白河法皇の御所である六条殿を急ぎ訪れた。御所では法皇を始めとして、公卿・殿上人が「この世は今にも滅亡するだろう、どうしたものか」と、手を握りしめ、神仏にすがる思いで願をかけている。義仲は門前まで行ったが、東国の軍勢が既に鴨川の河原まで攻め入っているとの噂を耳にしたので、特に法皇に暇請いする事もなく、その場から引き返した。六条高倉というところに、都で見初めた女房がいたので、そこへ立ち寄ったところ、名残惜しくなかなか出てくる事ができない。最近、義仲に仕えるようになった家来に、越後中太家光という者がいた。「どうしてこのようにくつろいでいらっしゃるのですか。敵は既に鴨川の河原まで攻め入っていると申しますのに、無駄死になさるつもりですか」と言ったが、それでも主人が出てこないので、「そうでいらっしゃるのなら、まず私が先立ちまして、死出の山*1で待っております」と言うと、腹をかき切って死んでしまった。これを見た義仲は「私を奮起させるための自害に違いない」と、すぐにそこを発った。義仲の勢は、上野国住人の那波太郎広純を先頭に、百騎にも及ばない。鴨川の河原に出てみると、東国の軍勢と思われる兵士が三十騎ほど出てきた。その中の二騎が進み出る。一騎は塩屋五郎維広*2、もう一騎は勅使河原五三郎有直*3である。塩屋は「後陣の軍勢を待つべきだ」と言ったが、勅使河原は「敵は一陣が敗れたのだから、残りの勢も動揺しているはずだ。ただ進め」と叫んで馬を走らせた。義仲は今日が最後との思いで戦い、東国の軍勢はそれぞれが我こそが義仲を討ち取ろうと勇んだ。
 大将軍の義経はというと、後白河法皇の御所を案じていた。自分が守護しようと考え、戦は兵士たちに任せる事にして、甲冑に身を固めた五、六騎で御所の六条殿へ急ぎ向ったのである。六条殿では大膳大夫成忠が、東の土塀に上って恐怖に震えながら当たりを見張っていた。すると、白旗をざっと差し上げた五、六騎の武士たちがこちらへ急ぎやって来るではないか。甲は後ろへ傾き、鎧の左の袖は風になびき、黒い煙が立っている。「また、木曾がやって来ました。これは大変だ」と成忠が言うと、「今度こそ、この世の終わりだ」と、法皇も臣下も大騒ぎになった。続けて成忠が「ただ今こちらにやって来る武士たちは、甲につけた印が変わっています。今日、都へ入った東国の軍勢かと思われますが」と言い終わる前に、義経は門前に着いていた。馬から降り、従者に門を叩かせると、義経は大声で言った。「東国から前兵衛佐頼朝の弟、九郎義経がやって参りました。お開け下さい」これを聞いた成忠は嬉しさの余り、土塀から急ぎ降りた時に思わず尻もちをついたけれども、痛さは嬉しさに紛れて感じず、這うようにして戻ると、法皇にこの事をお伝えした。後白河法皇は非常に感心なさって、すぐに門を開かせると義経を中にお入れになった。義経のその日の装束は、赤地の錦の衣に、裾に下るに従って紫が濃くなるように綴った鎧を着て、鍬形の飾りをつけた甲をかぶり、黄金造りの太刀を帯び、黒白の斑文が鮮やかな鷲の羽ではいだ矢を背負い、漆塗りの上を藤蔓できつく巻いた弓の鳥打*4に一寸*5ほどに切った紙を左巻きに巻いている。どうやらこれが今日の大将軍の印のようである。法皇が中門の格子窓からご覧になって、「頼もしそうな者たちだな。皆に名乗らせよ」とおっしゃったので、まず大将軍・九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司二郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重助と、それぞれが名を名乗った。義経も合わせると武士は六人、その鎧の色は様々だったが、不適な顔つきはいずれも劣らない。法皇に命じられて成忠が義経を大床に近い庭先まで呼び、戦の次第を詳しく尋ねると、義経はかしこまって答えた。「義仲の謀反を聞いて、頼朝は非常に驚き、範頼・義経を始めとする主だった武士たち三十人ほどに六万騎の軍勢で都へ向わせました。範頼は瀬田から回りましたが、まだ都にはやって参りません。義経は宇治の軍勢を攻め落として後、まずこの御所の守護をと、急ぎやって参りました。義仲は鴨川の河原を北に向って逃げるところを、兵士たちに追わせましたので、今頃はきっと討ち取られているでしょう」と、義経はいとも容易い事のように言う。法皇は非常に感心なさって、「感心な事である。義仲の残党などがやって来て乱暴をするかもしれない。お前たち、この御所をよくよく守護せよ」とおっしゃった。義経がこれを謹んで引き受け、四方の門を固めて待っていると、兵士たちがどんどん集まり、その数はすぐに一万騎にもなった。
 一方義仲は、万が一の事があれば法皇をお連れして西国へ逃れ、平家と組もうと考え、力仕事に従事する者を二十人揃えていたが、義経法皇の御所を守護していると聞いたので、「それならば」と、数万騎の軍勢の中へうめきながら飛び込んだ。今にも討たれそうになる事が何度かあったが、どうにか軍勢の中を通り抜けたのである。義仲は涙を流しながら、「このような事になると分っていたなら、今井を瀬田へは行かせなかったものを。幼少の頃から、死ぬ時は同じ場所で死のうと約束していたのに、別々の場所で討たれるとは何と悲しい事か。今井の行方を聞いてみよう」と言うと、河原を北へ向かった。六条河原と三条河原の間で、敵が襲ってきたので引き返して戦い、わずかな勢でありながら、霞のごとく大勢の敵を五、六度も追い返した。その後、鴨川をざっと渡り、粟田口*6・松坂*7まで来た。去年、信濃国を出た時には五万騎と言われた軍勢は、今日、四ノ宮*8の河原を過ぎる頃には、義仲を含め、わずか七騎になっていた。いっそう、中有*9の旅の空が思われたであろう、気の毒な事であった。

*1:しでのやま:亡者が冥途で必ず越えなければならないとされる山

*2:武蔵七党の一つ、児玉党

*3:武蔵七党の一つ、丹の党

*4:とりうち:弓の上部先端から30センチほど下の湾曲したところで、射た鳥が逃げないようにここで打ち据えたことによる

*5:約3.3センチ

*6:あわたぐち:京都の三条通りから大津に通じる街道の入口

*7:粟田口から山科に抜ける道

*8:京都市山科区四ノ宮

*9:ちゅうう:人が死んでから次の生を受けるまでの四十九日間