平家物語を読む129

蒲

巻第九 宇治川先陣

 佐々木四郎高綱が鎌倉殿から与えられた馬は、黒味がかった栗毛の馬で、極めて太くたくましい馬であった。馬でも人でもそばにいるものには見境なく噛み付いたので、「生きているものに食いつく」という意味から「いけずき」と名付けられたのである。前脚のつま先から肩口までが四尺八寸もあったと聞く。梶原源太景季が与えられた「するすみ」という馬も極めて太くたくましく、墨のように黒かったので「するすみ」と名付けられたという。どちらも劣らぬような名馬であった。
 東国の軍勢は尾張国から、正面軍と背面軍の二手に分かれて攻め上った。正面軍の大将軍である源範頼に伴うのは、武田太郎信義*1・加賀見二郎遠光*2・一条二郎忠頼*3・板垣三郎兼信*4・稲毛三郎重成*5・榛谷四郎重朝*6・熊谷次郎直実・猪俣小平六則綱*7、これらを先頭にして総勢三万五千騎が近江国の野路・篠原*8に着いた。背面軍の大将軍である源九郎義経に伴うのは、安田三郎義定*9・大内太郎維義*10・畠山庄司次郎重忠*11・梶原源太景季・佐々木四郎高綱・糟屋藤太有季*12・渋谷右馬允重助*13・平山武者所季重*14、これらを先頭に総勢二万五千騎が伊賀国を経て宇治橋のたもとに押し寄せた。宇治川瀬田川も橋板をはずされ、水底に打たれた杭には綱が張られ、流れには逆さにした木による柵が立てられている。
 時は一月の二十日頃、比良山・志賀山に旧年から降り積もっていた雪も消え、谷々の氷も融けて、折りしも川の水量は増えていた。白く波立った水があふれるように流れ下り、瀬枕は滝のように大きな音をたて、逆巻く水もまた速い。夜はもう白々と明けつつあるが、川には霧が深く立ちこめて、馬の毛の色も鎧を綴る糸の色も定かではなかった。そこへ大将軍の義経が川の端に進み出た。兵士たちの戦意を確かめようと思ったのだろう、川面を見渡して「どうするか、淀・いもあらいへ回るべきか、それとも水量が減る時期を待つべきか」と言うと、その頃はまだ二十一歳だった畠山重忠が進み出て言った。「鎌倉で、この宇治川についての論議が何度もあったではございませんか。知りもしなかった海や川が急に出現でもしたのなら仕方がありませんが。この川は琵琶湖を源とする川の下流ですから、待っていても水量が減る事はないでしょう。また、誰かが橋を渡すはずもありません。治承四年の以仁王の合戦の際、足利又太郎忠綱は鬼神だから特別な力でもって川を渡ったのでしょうか。この重忠が川に入り、浅瀬を確かめてきましょう」重忠が丹の党*15を主体とする五百騎の馬をびっしりと並べ、隊形を整えていたところへ、宇治の平等院の東北、橘の小島*16の方から武者二騎が馬を駆けに駆けさせてやって来た。一騎は梶原源太景季で、もう一騎は佐々木四郎高綱である。よそ目には分らなかったが、内々には先陣を切る事を心掛けていたので、景季は高綱より一段*17ほど前に進み出た。ところが高綱に「この川は西国一の大河でありますぞ。腹帯がゆるんでいるように見えますが、締めてはどうでしょう」と言われ、景季もその通りだと思ったのだろう、左右のあぶみに両足を踏ん張り、手綱を馬のたてがみに投げ掛けると、腹帯を締め直した。その隙に、高綱はさっと景季を追い抜いて、川の中へざっと入ったのである。だまされたと思ったのだろう、景季はすぐに自分も川の中へ馬を入れた。「何と佐々木殿、手柄を立てようと焦る余りに失敗をなされるな。水底には綱が張ってあるはずですぞ」と景季が言うと、高綱は太刀を抜き、馬の足に掛かる綱をばっつばっつと打ち切っては進んだ。何といっても、いけずきという天下第一の名馬に乗っての事である。宇治川の流れがいくら速いといっても、一直線にざっと川を進み、向こう岸へ渡りきったのだった。景季の乗っていたするすみは、川の半ばから弓なりに押し流されて、はるか下流の方で向こう岸に上がった。高綱はあぶみに足をふんばって立ち上がると、大声で名乗りを上げた。「宇多天皇*18より九代の末裔、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣であるぞ。我こそはと思う人々は、高綱の相手をせよ」
 畠山重忠もすぐに五百騎を従えて川を渡り始めた。向こう岸から山田次郎が放った矢に、重忠の馬は額を深く射られて弱ったため、重忠は川の途中で弓を杖のようについて水の中に下り立った。岩に当たって砕ける波が甲の先にまでざっと押し上がってきたが、それを物ともせずに水の底を潜って向こう岸に着いたのである。さて岸に上がろうとすると、後ろから何者かがむんずと引き止める。「誰だ」と問うと、「重親」と答えた。「何と大串か」「そうでございます」大串次郎重親は畠山重忠の烏帽子子*19である。「余りに水が速くて、馬は押し流されてしまいましたので、どうしようもなくなり、ついてまいりました」と言うのを聞いて、重忠は「いつもお前たちのような奴は、この重忠のような者に助けられてばかりだな」と言うや否や、大串重親を抱えて岸の上へ投げ上げた。投げ上げられた重親がまっすぐに立ち上がって、「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣であるぞ」と名乗るので、これを聞いた敵も味方も一度にどっと笑い声を上げた。その後、予備の馬に乗り換えた畠山重忠が岸に上がった。そこへ、波に魚の模様を織り出した綾織物の衣に緋色の革で綴った鎧を着て、穴あき銭を並べたような斑文のある葦毛の馬に、金で縁取った鞍を置いてまたがった敵の兵士が、真っ先に進み出たので、重忠が「こちらはどのような人か、名乗られよ」と言うと、相手は「木曾殿の家臣、長瀬判官重綱」と名乗った。畠山重忠は「今日の戦の神に捧げよう」と言うと、馬を押し並べて相手をむんずとつかんで引き落とし、その首をねじ切って本田二郎の鞍の後輪の紐につけさせた。これを始めとして、木曾殿の宇治橋を固めようとする軍勢は、しばらくの間、敵の攻撃を防いだが、東国の軍勢が皆、川を渡って攻め出すと、散々に蹴散らされ、木幡山*20・伏見*21を目指して逃げ出してしまった。瀬田はというと、稲毛三郎重成の計略により、瀬田橋から下流に約一里の田上の供御の瀬*22にて、向こう岸へ渡るに至った。

*1:甲斐国の住人で、源義光の孫

*2:信義の弟

*3:信義の子

*4:信義の子

*5:小山田有重の子で、武蔵国の住人

*6:はんがい:重成の弟

*7:武蔵七党の一つ、横山の支族

*8:滋賀県草津市野路町と、野洲野洲町篠原

*9:武田信義の弟

*10:信濃国の住人で、平賀義信の子

*11:桓武平氏、重能の子

*12:相模国の住人

*13:相模国の住人

*14:武蔵国の住人

*15:にのとう:武蔵七党の一つ

*16:宇治橋から下流の右岸よりにあった中洲で、今はない

*17:約11メートル

*18:第59代天皇

*19:えぼしご:武士が元服する時に烏帽子をかぶせる役をする人を「烏帽子親」、元服する若者を「烏帽子子」といい、烏帽子親は一族の勇士に依頼するのが通例だった

*20:こはたやま:現宇治市木幡にある山

*21:京都市伏見区

*22:たなかみのぐごのせ