平家物語を読む124

巻第八 瀬尾最期*1

 木曾の義仲は水島での敗戦を聞いて、「心穏やかではいられない」と、一万騎で山陽道へ馳せ下った。ここに、備中国の住人で瀬尾太郎兼康という者がいる。倶梨伽羅峠の戦で、加賀国の住人・倉光次郎成澄に生け捕りにされた平家の侍で、その後は成澄の弟である三郎成氏に預けられていたが、評判の力の強い猛者であったので、「あのように優れたものを失うのは惜しまれる」という義仲により、斬られずに生きていた。人付き合いもよく、心根も優れていたので、成氏も大事にもてなしたというから、漢の蘇武や李陵が北方の匈奴に捕らわれた時によく似ている。遠い異国に身を預けるという事は、昔の人にも悲しむべき事であったと言えよう。漢の二人は異国にて、なめし革で作った肘当て、毛織の布で張った天幕で風雨を防ぎ、生の肉、牛や羊の乳で作った汁で飢えや渇きを満たしたが、兼康は夜も寝る暇もなく、昼は終日働いた。木を切ったり草を刈ったりまではしなかったが、その他の事は何でもして、どうにか敵の隙をうかがって、再び平家のもとへと、兼康は心の内で思っていたというから、恐ろしいものである。
 ある時、兼康は倉光三郎成氏に、「去年の五月から、こうして生きていても甲斐のない命を助けていただきました。今となっては、誰を誰と、特別に区別しなければならないとも思いません。今後、戦があった場合は、真っ先に駆けつけて、木曾殿の命をお守りしようと思います。兼康が領有していました備中の瀬尾は馬を飼育するのによい牧草地です。所望して領有なされてはどうでしょうか」と言った。成氏がこの事を伝えると、義仲は「感心な事を言うものだ。それではお前がまず、瀬尾を案内者にして備中国へ向え。間違いなく、馬に与える草を用意するように」と言ったので、成氏はこれを喜んで承知して、三十騎ほどで瀬尾太郎兼康を先頭に備中へ向った。ところで、兼康の嫡男である小太郎宗康は平家方にいた。父・兼康が義仲に許されて備中へ向っていると聞き、年来仕えてきた家来たちを集め、五十騎ほどで迎えに出ていたのである。播磨国国府*2で双方は行き合い、一緒に備中国へ向った。備前国の三石*3の宿駅に泊まっている時、兼康に親しい者たちが酒を持って訪ねてきた。その夜は一晩中、歓迎の酒盛りが行われた。倉光三郎成氏と従者三十人が酔いつぶれたのを見計らって、兼康は相手が起きるのも待たずに、すべて刺し殺してしまった。備前国は源十郎蔵人行家の国になっていたが、国府に押し寄せ、そこにいた代官も討ってしまったのである。
 「兼康は木曾殿との縁を切り、こうしてやって来た。平家に忠誠を誓う人々は、兼康を先頭にして、木曾殿がやって来た時は、矢を射てみよ」と広く人々に知らせると、備前・備中・備後の三ヶ国の兵士たちは、馬・武具・役に立つ従者を平家方へと連れてきて、隠居していた老人たちでさえ平常着の上に鎧を着て、我先にと兼康のもとへ集まってきた。その数は総勢二千人以上、瀬尾太郎兼康を先頭に、備前国の福竜寺縄手*4と篠*5の間に城砦を築いた。堀の幅、深さは共に二丈*6、そこに木を逆さにしたものを並べた。矢を射るための足場を高く築き、槍を垣根のように並べて、敵を今か今かと待った。
 行家によって備前国に置かれていた代官が兼康に討たれたため、その雑役たちが都へ逃げようとしていたところ、播磨と備前の境の船坂という峠で、義仲に行き合った。事の次第を聞き、義仲が「我慢ならない事だ。斬り捨てるべきであったものを」と後悔していると、今井四郎は「やはりそうでしたか。奴の顔つきはただ者とは思えませんでした。何度も斬ろうと申しましたのに、お助けになるとは」と言う。義仲は「奴の考えではたいした事はあるまい。追いかけて討て」と命じた。今井四郎は「まずは行って見てみましょう」と、三千騎で急ぎ向った。福竜寺縄手は、道の幅は弓一本ほど、大きさは西国道でいう一里*7である。左右には深い田があり、馬の足でも自由がきかないので、今井四郎の三千騎は気持ちばかりが先走ったが、馬の意のままに歩かせて進んだ。押し寄せてみると、瀬尾太郎兼康は矢を射るための足場に立っている。大声で「去年の五月から今まで、生きていても甲斐のない命を助けてくださったあなた方の親切へのお礼として、このようなものを用意致しました」と言うや否や、選りすぐりの数百人の優れた射手が、矢先をそろえて次々に矢を射始めた。正面から立ち向かって行く術はない。今井四郎を始めとする楯・禰井・宮崎三郎・諏訪・藤原などという勇み立った兵士たちは、甲をかぶった頭を前に傾けると、射殺された人馬を引き入れては堀を埋め、埋めき叫んで戦った。左右の深い田に馬で乗り入れ、馬の胸先や腹が泥に浸かる事をものともせず、群がって攻め寄せたり、谷や湿地を嫌がらずに駆け入ったりして、戦は一日中続いた。夜になる頃には、瀬尾太郎兼康が寄せ集めた武者たちは皆が攻め落とされ、助かった者は少なく、討たれた者が多かった。兼康は篠の城砦を破られて引き退き、備中国の板倉川*8の端に槍を垣根のように並べて待ち伏せていた。そこに今井四郎の軍勢が攻め寄せた。初めは何とか矢でもって攻撃を防ぐ事ができたが、携帯していた矢をすべて使い尽くしてしまうと、皆が我先にと逃げ出した。
 瀬尾太郎兼康は従者とたったの三人になるまで攻められ、板倉川の端から緑山*9の方へ逃げて行った。そこへ、倶梨伽羅峠で兼康を生け捕りにした倉光次郎成澄が「弟が討たれた事は我慢ならない。この瀬尾だけは、必ずや再び生け捕りにしてみせよう」と、群を抜いた速さで兼康を追いかけた。あと一町*10というところまで追いつかれた時、「何と瀬尾殿、卑怯にも敵に後姿を見せるというのか。引き返せ」と言われ、兼康は板倉川の中で、馬の歩みを止めて待ち構えた。そこへ成澄が駆けつけ、馬を押し並べる。両者はむんずと組み、どんと落ちた。互いに劣らない力持ちであるので、上になったり下になったりして転がっているうちに、川岸近くの淵の中へ落ちてしまった。成澄は泳ぎが苦手だが、兼康は得意である。兼康は水の底で成澄を取り押さえると、鎧を引き上げ、力の限りを尽くして三度、刀を突き刺した。自分の馬はもう乗れない状態だったので、首を取った成澄の馬に乗って逃げる。その途中、嫡男の小太郎宗康が徒歩で逃げているのに行き合った。この宗康はまだ二十二、三歳であるというのに、余りに太っているため、もう一町も走る事ができない。武具を脱ぎ捨てても、これ以上は難しかった。父である兼康はこれを見捨てて、そこから十町も逃げ延びた。従者に会った時、「兼康が千万の敵と戦をする時は、四方が晴れ渡っているように感じるものだが、今回は小太郎を見捨てて来てしまったので、まったく目の前が暗くて見えない。たとえこのまま生き永らえて、再び平家に仕える事があっても、同僚たちよ、『兼康は今では六十にもなるというのに、あとどれだけの命を惜しんで、たった一人の息子を見捨てて逃げたというのか』と言われる事は本当に恥ずかしい事だ」と言うと、従者は「そうであるなら、一緒にどうにでもなったらよいのです。引き返してください」と言う。兼康は「その通りだ」と、息子のところへ引き返した。宗康は足がひどく腫れ上がり、倒れていた。「お前が追いついて来ないので、一緒に討ち死にしようと引き返してきたがどうだ」と兼康が言うと、宗康ははらはらと涙を流して「才智・力量に欠けた身である私だけが自害するべきでありますのに、私のせいで父の命まで失わせる事は五逆罪*11に当たってしまいます。どうか、すぐにお逃げください」と言う。だが、「覚悟を決めた以上は」と、そこに留まっていると、今井四郎を先頭に五十騎ほどの軍勢が叫びながらやって来た。瀬尾太郎兼康は、七、八本残っていた矢を次々に射る。殺したのか傷つけただけなのかは分らないが、即座に五、六騎が射落とされた。その後、刀を抜いて、まず息子・宗康の首を打ち落とすと、敵の中へ飛び込んだ。散々に戦い、敵の頭を討ち取って、ついには討ち死にしたのであった。従者も主人である兼康に少しも劣らずに戦ったが、重傷を負い、戦い疲れて自害しようとしてところを生け捕りにされた。これは中一日おいて、死んだ。これら主従三人の首は、備中国の鷺が森*12に掛けられた。これを見た義仲は、「何と勇ましい者よ。これこそ、一人で千人分の兵士と言うものだろう。惜しむべき者たちを助けてやれずに残念だ」と言ったという。

*1:せのおさいご

*2:兵庫県姫路市にあった

*3:岡山県備前市三石

*4:岡山市津島の福輪寺縄手か

*5:ささ:現岡山市津島笹が瀬の辺りか

*6:約3メートル

*7:通常の六町

*8:岡山市吉備津を流れる川

*9:岡山県総社市緑山か

*10:約109メートル

*11:仏教の五つの重い罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏身を傷つける・和合僧を破る)

*12:岡山県吉備津、吉備津神社の辺りか