平家物語を読む163

巻第十一 勝浦*1

 夜は既に明けていたので、渚には赤い旗がいくつかはためいていた。義経はこれを見て、「おや、我々に対する準備をしていたな。船を岸に横付けし、傾けて馬を下ろそうとすれば、敵の的となって射られてしまうだろう。渚に着く前に、馬を海に下ろし、船から離さないようにして泳がせよ。馬の足が立ち、鞍の下端が水につかるほどの深さになったら、さっと馬に乗って駆けるのだ」と命じた。五艘の船には武具や兵糧米も積んであったので、馬は五十頭だけを海に下ろした。渚が近付いたので、馬にさっと飛び乗り、叫びながら駆けた。渚には百騎ほどの勢がいたが、少しの間も防ぐ事ができず、二町*2ほどざっと退いてしまった。義経は波打ち際に立ち、馬の息を休めていたが、伊勢三郎義盛を呼んで「あの勢の中に、役に立ちそうな者がいるか。一人連れて参れ。尋ねたい事がある」と言った。義盛はかしこまって命を受けると、ただ一騎で敵の中へ駆け入った。どう説明したのだろうか、黒皮で綴った鎧を着た四十歳ほどの男を、甲を脱がせ弓の弦をはずさせて、連れ帰ってきた。義経が「何者だ」と聞くと、「当阿波国の住人、坂西の近藤六親家*3」と答える。「なに家であろうと構わない。鎧を脱がせるな。次の屋島への案内者として連れて行くぞ。その男から目を離すな。逃げようとしたなら、射殺せ」こう命じた。「ここは何という所だ」を義経が問うと、「『勝つ浦』と申します」と言う。義経が笑って「お世辞か」と言うと、「まぎれもなく勝つ浦と言うのでございます。言いやすいので『かつら』と発音しますが、文字では『勝浦』と書くのでございます」と言うので、義経は「あなた方よ、これを聞きましたか。戦をしに向かう義経が、『勝つ浦』に着くとは目出たい」と喜んだ。「この辺に、平家に内通している者はいないか」「阿波民部重能*4の弟である桜間介能遠*5という者がおります」「それならば、それを蹴散らして行こう」と、近藤六親家の百騎ほどの軍勢の中から、三十騎ほどを選りすぐると、自身の軍勢に加えた。桜間介能遠の城*6に押し寄せてみると、三方は沼、一方は堀である。堀の方に押し寄せて、戦の開始を知らせる喚声をどっと上げた。城の中の兵士たちは矢先をそろえて、次々に矢を射てくる。源氏の兵士はこれをものともせず、頭を前に傾け、うめき叫びながら攻め入った。桜間介は敵わないと思ったのだろう、家来・従者に防ぎ矢を射させ、自身は持っている極めて優れた馬に飛び乗って、やっとの事で逃げ延びた。義経は防ぎ矢を射ていた兵士たち二十人ほどの首を切って掛け、戦神に祭ると、勝利の喚声を上げ、「幸先がいい」と言った。
 義経は近藤六親家を呼んだ。「屋島には平家の軍勢がどれくらいいるのか」「千騎には及ばないと思われます」「どうして少ないのか」「四国の浦々、島々に五十騎、百騎づつ置かれております。その上、阿波民部重能の息子である田内左衛門教能*7は、伊予国の河野四郎が呼び出しに応じないので、これを討とうと、三千騎ほどで伊予国へ向かっているのでございます」「さては、いい機会だな。ここから屋島へはどれくらいの道のりだ」「二日でございます」「それならば、敵の耳に入る前に攻め寄せよう」と、馬を走らせたり歩かせたり、急がせたり立ち止まらせたりして進んだ。阿波と讃岐の境にある大坂越え*8という山も、夜を徹して越えた。
 夜中過ぎ、義経は書状を持った男と道づれになった。男は、夜の事ではあり、敵とは夢にも思わず、味方の兵士たちが屋島へ向かっているのだと思ったのだろう、打ち解けていろいろと話しをした。「その手紙はどこへのものだ」「屋島の大臣・宗盛殿へのものでございます」「誰からのものか」「都の女房からのものでございます」「何事だろうか」と言うと、「特別の事ではないでしょう。源氏が既に淀川の河口に進出して、船を浮かべていますので、その事を伝えようとしているのではないでしょうか」と言う。「本当にそうであろうな。自分も屋島へ向かっているのだが、いまだに道を知らないので、道案内を頼みたい」「この私は屋島に何度も行っていますので、道はよく存じています。お供致しましょう」すると義経は「その手紙を取れ」と、男から文書を奪い取らせ、「そいつを縛り上げよ。むやみに首を切るな」と、山中の木に男を縛り付けて置き去りにしてしまった。さて、文書を開いて見ると、確かに女房からの手紙のようで、「九郎は機敏な男でございますから、大風・大波をも嫌わず、攻め寄せるであろうと思われます。軍勢を散らさないようにして、ご用心ください」と書かれていた。義経は「これは義経の武勇を証するために、天が与えてくださった文書である。鎌倉殿にお見せしよう」と、大事にしまっておいたという。
 翌二月十八日の午前四時頃には、讃岐国の引田*9という所で足を止め、人と馬を休ませた。その後は丹生屋*10・白鳥*11を通り過ぎ、屋島の砦に近付いた。再び近藤六親家を呼んで、「屋島の水の深さはどのくらいだ」と尋ねた。「ご存知ないからこそお尋ねになったのでしょうが、たいそう浅いです。潮が引いている時は、陸と島の間は、馬の腹も水につかないほどでしょう」と言うので、「それならばすぐに攻めよう」と、高松*12の民家に火をかけて、屋島の砦へ攻め寄せたのである。屋島では、伊予国で河野四郎を討ち損なった田内左衛門教能が、家来・従者百五十人ほどの首を切って、屋島の仮の内裏へ持ち込んでいた。が、「内裏で、賊首の検査を行うべきではない」と、宗盛公の宿所に場所が移された。首は百五十六人分だった。首の検査をおこなっていると、「高松の方で火の手が上がっている」と、兵士たちが騒ぎ始めた。「昼であるから、まさか失火ではないであろう。敵が寄せてきて火をかけたに違いない。きっと大勢であるだろう。取り囲まれてはどうしようもない。すぐに船にお乗りください」と、大門の前の渚に船を並べられ、皆が我先にと乗り込んだ。安徳天皇の御座舟には、建礼門院・北の政所*13・二位殿以下の女房たちが乗った。宗盛公と息子の右衛門督・清宗は同じ船に乗った。その他の人々も、思い思いに船に乗り込み、一町、七八段、五六段などと漕ぎ出したところに、甲冑に身を固めた源氏の兵士たちが八十騎ほど、大門の前の渚にすっと現れた。大潮のそれも干潮の盛りであったので、馬の烏頭*14、下腹が見えるほどの深さの所もある。それより浅い所もあった。馬が水を蹴り上げるたびに水しぶきが上がり、軍勢が密集しているように見える。その中から白旗がざっと差し上げられたので、運に見放された平家はこれを大軍勢と見誤ってしまった。義経は、敵に少数だとわからないように、五六騎、七八騎、十騎と、兵士を群れさせながら進んでいたのである。

*1:かつうら:現徳島県小松島市であるが、義経の上陸地については諸本の間で相違がある

*2:一町は約109メートル

*3:ちかいえ:阿波国板野郡板西の住人

*4:阿波国の豪族で、平家に仕えた

*5:よしとう:阿波国名方西郡桜間の住人

*6:徳島県名西郡石井町桜間辺りにあった

*7:のりよし

*8:徳島県板野郡板野町大坂

*9:香川県大川郡引田町引田

*10:にゅうのや:現大川郡大内町町田

*11:大川郡白鳥町白鳥

*12:高松市の東の古高松付近

*13:関白・藤原基通の妻で、故清盛の娘

*14:後脚の外に向かって曲がった関節