平家物語を読む17

巻第一 御輿振*1

 ところで、加賀守の国司・師高は流罪国司代官・師経は禁獄に処されるべきだと何度も訴えたにも関わらずまだ裁決がなかったので、延暦寺の僧たちは毎年行う山王社の祭礼を取りやめて、安元三年の四月十三日、午前七時半頃に飾りつけた十禅師・客人・八王子の三社*2の神輿を振りかざして、宮中護衛の役人の詰所へ向かった。さがり松*3・きれ堤*4・賀茂の河原・糺*5・梅たヾ*6・柳原*7・東福院*8と、比叡山から雲母坂を経て京へ入る道には、神主から下級の僧まで様々な位の僧たちが数え切れない程あふれていた。神輿は一条を西へ行った。飾り立てられたその姿の輝きは、太陽か月が地に落ちたのではと驚く程だった。この知らせを聞いて、源家の大将軍と平家の大将軍は各々が、四方の宮中護衛の役人の詰所を守り固めて、僧たちを防ぐようにとの命令を下した。平家においては内大臣の左大将・重盛公が、総勢三千人以上の馬に乗った兵士たちで、東の大宮面*9の陽明・待賢・郁芳の三つの門を守り固めた。重盛公の弟である宗盛・知盛・重衡や叔父の頼盛・教盛・経盛などは、御所の西南にある警護の役人の詰め所を守り固めた。源氏においては大内守護*10頼政*11卿が、渡辺省・授*12を主立った者として、総勢わずか三百人程の馬に乗った兵士たちで、内裏の北中央の門にある警護の役人の詰め所を守り固めた。が、広いその場所に対して兵士の数は少なく、まばらに見える程であった。
 結局、兵士の数が少なかった事により、延暦寺の僧たちは神輿を北中央の門から入れようとした。頼政卿はしっかりした相当の人物であったので、馬から下りて兜を脱ぎ、神輿に頭を垂れて礼をした。兵士たちも皆、同じようにした。頼政卿は延暦寺の僧たちの中に使者を送った。使者となったのは渡辺党の長七唱*13と言う者で、青みがかった黄色の直垂*14に地が黄色でその上に緑の子桜を配した鎧を着て、金具を赤銅で作った太刀を持ち、背には鷲の白い羽ではいだ矢を二十四本、脇には漆で黒く塗った上に藤のつるを巻きつけた弓をはさみ、脱いだ兜は紐に結んで背負っていた。唱は神輿の前に威厳を正して座ると、こう言った。「延暦寺の方々へ、源頼政殿より伝言がございます。今回の延暦寺による訴訟が道理にかなっているのは申すまでもありません。裁決が長引いているのは、よそ目に見ても残念に思われます。よっては神輿を御所に入れなさる事に、少しも異存はありません。ただ頼政の兵士の数は少のうございます。そのような場所にある門を破って警護の役人の詰め所に入ったならば、京都中の口さがない無頼な若者たちは、延暦寺の僧たちは相手の弱みに付け込んだなどと言い、その事が後々、延暦寺の方々の名誉に傷を残す事になるのではないでしょうか。神輿を御所の中に入れるのを許す事は、天皇の命に背くようなものです。また入れずに防いだならば、長年、延暦寺の本尊・薬師如来山王権現に帰依してきたこの身は、今日以降、仏罰により武士を捨てねばならぬ事になるでしょう。神輿を入れても防いでも、どちらにしても難しい問題のようです。東にある警護の役人の詰め所は、平重盛殿が兵士を大勢従えて守り固めておられます。そちらから入られるべきではないでしょうか」これを聞いて、下級の僧たちは進まずにしばらくの間その場所に留まった。若い僧たちの中には「どうしてそんな理屈があるものか。ただこの門から神輿を入れればいいのだ」と言う者が多かったが、老僧の中に比叡山の三塔*15第一の雄弁家と名高い豪運と言う者がいて、前へ進み出て言った。「先方の言い分はもっともだ。神輿を先頭に御所へ乗り込んで訴えるのならば、大勢の兵士を打ち破ってこそ後世の聞こえもいいというものだ。とりわけ、この頼政卿と言うのは六孫王*16から続く源氏の家督を正統に継ぐ者であり、弓の腕前においては誰にも遅れをとった事がない。大体、武芸に限らず歌道にも優れている。近衛院の頃*17、その座で出された題で歌を詠む歌会があり、「深山の花」と言う題が出された。人々が詠めずに悩んでいると、頼政卿は
   深山木のその梢とも見えざりしさくらは花にあらはれにけり*18
と言う名歌を詠まれ、天皇からお褒めの言葉をいただいた。それほど風流の道を解する男に、とっさの場合にあたって情けをかけずに恥を与えるのはいかがなものだろうか。この神輿をここから入れるのはやめないか」これを聞いて僧たちが評議をしたところ、先陣から後陣までの数千人が皆、その通りだと同意を示した。
 よって東の警護役人の詰め所のある待賢門に向かい、神輿を先頭にしていざ入ろうとすると、たちまちにして騒乱が起こり、武士たちは容赦なく弓矢を射た。十禅寺の御輿にも、数多くの矢が刺さった。下級の僧たちは射殺され、たくさんの僧が傷を受けた。うめき叫ぶ声は梵天*19の耳にまでも届き、堅牢地神*20も驚いたと思われる。僧たちは神輿を警護役人の詰め所の前に放置して*21、泣きながら比叡山へ帰った。

*1:みこしぶり

*2:山王七社のうちの三社

*3:左京区一乗寺下り松町

*4:高野川東岸の堤

*5:ただす:賀茂川と高野川の合流地

*6:一条京極梅忠社の辺り

*7:上京区柳原町

*8:一条南京極東

*9:大内裏の東端を南北に走る大路で、僧たちの進撃を正面に受ける位置に当たる

*10:内裏を守護する職で、源氏の世襲の職とされた

*11:よりまさ

*12:はぶく・さずく:嵯峨源氏の一族で、摂津の渡辺に住み、渡辺党と称した

*13:きょうじつとなう

*14:ひたたれ:もと庶民の衣服で、武家の代表的衣服

*15:東塔・西塔・横川

*16:源経基

*17:こんえのいん:第76代 1141〜1155

*18:深山には多くの木が生い茂り、その梢がどれか見分けがつかなかったが、桜の木だけは春になると花を咲かせ、それと知る事ができた

*19:仏教で欲界の上にある色界十八天の最下位の初禅天の主

*20:仏教で大地を司る神

*21:神霊が宿る神輿を放置された側はその処置に困り、延暦寺側の要求を受け入れざるをえなかったので、延暦寺側は常套手段として神輿を放置した