平家物語を読む60

Pileated Woodpecker

巻第四 競*1

 高倉の宮*2は高倉小路を北へ行き、近衛大路との交差点で東に向かい、賀茂川を渡って如意山を越え、三井寺へ向かわれようとした。昔、天武天皇がまだ皇太子であった頃、賊徒に襲われて吉野山へ向かわれた時、少女の姿に身をやつされたと言う*3。今の高倉の宮の姿も、それに近いものでいらっしゃった。夜通し、山路を分け入って進まれたが、これまでにまったく経験のない事だったので、足からは血が流れ、その血が地面を紅く染めるほどであった。夏草の茂みをかき分ける度に身体は露に濡れ、さぞかし辛く思われた事であろう。そうして明け方にようやく三井寺へ到着された。「生きていても甲斐のない命を惜しみ、三井寺を頼りにやって来た」とおっしゃると、三井寺の僧たちは恐れ入って、法輪寺*4に仮の御所を準備し、そこに高倉の宮を案内して慣例通りに高貴な方への食事を用意した。
 夜が明けた五月十六日の朝、高倉の宮が謀反を起こし姿を隠されたという噂が伝わるやいなや、京中が大騒ぎになった。後白河法皇の耳にもこの噂が届き、「鳥羽殿を出た事が喜び事だった。同時に、泰親が占いの結果として述べた悲しむべき事とは、この事を指していたのだ」とおっしゃった。
 そもそも入道・源頼政は、これまでの年月の間、何事も起こさずにきたから無事でいられたのに、今年になってどういう心持ちから謀反を起こしたのだろうか。実はそこには、平家の次男である宗盛卿がした、とんでもない事が関わっていたと聞く。いくら栄えているからといって、むやみにしてはならない事をして、言ってはならない事を言うとは、考えものである。
 そのとんでもない事とは、頼政の嫡子である伊豆守・仲綱の所にいた名馬がきっかけであった。鹿毛のその馬は、多くの馬の中で郡を抜いて優れており、性質もよく、その評判は宮中にも届くほどであった。名を「木の下*5」と言う。この名馬の噂をどこからか耳にした宗盛卿は、仲綱のもとへ使者をやり、「評判の高い名馬を見せてもらいたい」と伝えた。仲綱の返事には「確かにおっしゃる馬はいますが、近頃乗りすぎたせいで弱っていますので、しばらくの間、休養させるつもりで田舎へやっています」とあったので、「それならば仕方がない」と宗盛卿は諦めようとした。ところが周りの侍たちが「おや、あの馬は一昨日までいたのに」、「昨日もいたぞ」、「今朝も庭で乗り回していた」などと言う。これを聞いて宗盛卿は「さては惜しんでいるのだな。腹立たしい、要求せよ」と、すぐに侍を仲綱のもとへ向かわせた。一日のうちに何度も宗盛卿の侍が手紙を持って押しかけてくる事を聞いた入道・頼政は仲綱を呼び寄せ、「たとえ黄金を丸めて作った馬であっても、それほどまでに人が所望するのであれば惜しんではならない。すぐにその馬を六波羅へ送りなさい」と言った。仲綱は仕方なく、歌を一首書き添えて名馬を六波羅へ送った。
   こひしくはきても見よかし身にそへるかげをばいかゞはなちやるべき*6
宗盛卿は歌の返事をする事もなく「何とすばらしい馬だ。馬は本当にいい馬であった。だが、あまりに主人が惜しむのが腹立たしいので、主人の名の焼印を押せ」と命じた。「仲綱」と焼印を押された馬は厩に置かれた。訪れた客人に「噂の名馬を見せて下さい」と言われると、宗盛卿は「その仲綱に鞍を置いて引き出せ。仲綱に乗れ、仲綱をむちで打て」などと言ったという。噂でその事を聞いた仲綱は「我が身に変えてもと思うほど大切な馬であり、権力を笠にきて取られる事だけでも悔しいのに、馬の事で仲綱が世間の笑いの種になるとは心外である」と非常に憤慨した。これを聞いた入道・頼政は仲綱に「何も手出しはできないだろうとたかをくくって、平家の人々はそのような馬鹿げた事をしているのだろう。そういう事ならば、生きていても何の甲斐もない。報復する機会をうかがおう」と言い、その後、個人的な復讐の計画に留まらず、高倉の宮に謀反の話しを持ちかけるに至ったと後に聞く。
 このような出来事を思っても、内大臣・重盛公の事が偲ばれる。ある時、参内のついでに中宮*7を見舞おうとした重盛公の前に、八尺ほどもある蛇が現れた事があった。重盛公の袴のくるぶしの辺りを這い回っている。が、自分が騒げば女房たちも騒ぎ、中宮も驚くだろうと思った重盛公は、左手で蛇の尾を、右手で頭を捕まえ、衣の袖の中に隠した。そして静かにさっと立って「六位はいるか」と呼んだ。その頃はまだ衛府蔵人であった仲綱がそばへ行き、「仲綱です」と名乗ると重盛公は蛇を渡した。受け取った仲綱は校書殿を通り、殿上の間の前の庭で小役人を呼んで「これを持っていけ」と言ったが、小役人は頭を横に振って逃げてしまった。仕方がないので、自分の従者である滝口の武士・渡辺競*8を呼んで、蛇を渡した。競は受け取った蛇を捨ててしまった。翌日、重盛公は「昨日の振る舞いは立派でした。この馬は乗り心地の一番いい馬です。夜の闇の中で、美女のもとへ通う時に使うといいでしょう」と、仲綱のもとへ鞍を付けた馬を贈った。仲綱は大臣へ「お馬をありがたく頂戴いたしました。昨日のお振る舞いは還城楽*9に似ていらっしゃったように思います」と返事をした。重盛公はこのように立派な方であった。宗盛卿がそこまででないのは仕方がないとしても、事もあろうに人の大切な馬を奪い取って、国の一大事の原因を作るとは情けない事である。
 五月十六日の夜、入道・源頼政と嫡子の伊豆守・仲綱、次男の兼綱、蔵人・源仲家*10と息子の仲光以下、総勢三百人以上が、建物に火をつけてから三井寺へ向かった。
 入道・頼政の侍に滝口の渡辺競という者がいた。主人である頼政のもとへ駆けつけるのが遅れてとどまっていたところを、宗盛卿に呼ばれ「どうしてお前は入道と共に行かずにとどまったのか」と尋ねられた。競はかしこまって「万一の事があれば、真っ先に駆けつけて命をかけようと日頃から思っていたのですが、主人はどう思われているのか、今回の事については何も知らせていただけませんでした」と答えた。宗盛卿が「お前は国の敵である頼政の味方になろうと考えるのか。また、ここにも出入りしている。これは二人の主人に仕えているようなものだ。将来の出世と子孫の繁栄を願うのであれば、平家に仕えるべきである。すべてを打ち明けよ」と言うと、競は涙をはらはらと流して「先祖代々続いてきた主従の縁は大事ではありますが、どうして国の敵となった人の味方になる事があるでしょうか。こちらにお仕えいたします」と言った。宗盛卿は「それならば仕えよ。頼政がしてきた処遇には少しも劣る事はないぞ」と言って、中へ入った。すぐ側で「競はいるか」、「ここにおります」、「競はいるか」、「おります」というふうに、朝から晩まで仕えた。日が暮れ始めた頃、宗盛卿が表に姿を見せた。競がかしこまって「頼政殿は三井寺にいると聞きました。きっと討ち手を差し向けてくる事でしょう。恐れるには足りません。相手は三井寺の僧兵や、よく知った渡辺党の連中です。めぼしい敵を選んで討ち取ろうと思いますが、そのための馬をよく知った連中に盗まれてしまいました。どうか馬を一匹、いただく訳にはいかないでしょうか」と言うと、宗盛卿は「もっともである」と、白毛の多い葦毛の「煖廷*11」という名の秘蔵の馬に鞍を付け、これを競に渡した。宿所に戻った競は「早く日が沈むといい。この馬に乗って三井寺へ行き、頼政殿の軍の先頭に立って戦おう」と言った。やがて日が沈むと、妻子をあちこちに隠れさせた。三井寺へ出発する競の心の内は悲壮であった。菊の花のように結ばれた紐が付いたいくつかの文様が織り交ぜられた狩衣を着て、先祖より代々伝わる緋色の組紐で綴られたはなやかな大鎧を身にまとい、銀がかぶせられた鋲が打たれた甲をかぶり、大きく見えるように外装が作られている太刀を持ち、二十四本の矢を背負った。矢には、滝口の武士の礼式作法にのっとり鷹の羽で作られた的矢が一対*12添えられた。漆で黒く塗られた弓柄に藤蔓を巻いた弓を持って、名馬・煖廷にまたがり、もしもの時に乗り換えるための馬に家来を乗せ、舎人に携帯用の槍を持たせ、宿所に火をかけてから、競は三井寺へ向かった。
 六波羅では、競の宿所から火が出たと大騒ぎになった。慌てて出てきた宗盛卿が「競はいるか」と聞くと、「おりません」と答えが返ってきた。「さてはあいつの企てに気付かずにだまされるとは。追いかけて討て」と宗盛卿が言っても、競はもともと優れた弓の射手で、矢を続けざまに射る事ができる名手であり剛勇なつわものであるので、「二十四本ある矢で、まず二十四人は殺されるだろう。声を立てるな」と、追いかける者はいなかった。
 三井寺ではちょうど競の噂話をしていた。渡辺党の者が「競こそ、連れてくるべきだったものを。六波羅にとどまった事で、一体どのようなひどい目に遭っているだろうか」と言うと、競の心中を知る頼政は「競はむざむざと捕らえられはしないだろう。清盛公に深く心を寄せている者である。今に見よ、きっとやって来るであろう」と言った。と、その言葉が終わるか終わらないかの内に、競がさっと姿を現したので、頼政は「それ見た事か」と言った。競はかしこまって「仲綱殿の名馬・木の下の代わりに六波羅の煖廷を取って来ました。差し上げます」と言って、馬を仲綱に渡した。伊豆守・仲綱は非常に喜んで、すぐに馬の尾とたてがみを切り焼印をした。次の日の夜、六波羅へこの馬を連れて行かせ、夜中に門の中へ追いやるようにした。厩で他の馬たちと噛み付き合っているのを見て、舎人たちは驚き「煖廷が帰ってきました」と伝えた。宗盛卿が急いで見に行くと、馬には「昔は煖廷、今は平家の宗盛入道*13」と焼印がしてあった。宗盛卿は「腹立たしい競め、気付くのが遅れてだまされたとは悔しい。今度、三井寺を攻めた際には、どうにかしてまず競を生け捕りにせよ。のこぎりで首を切ってやる」と、激しく怒ったが、煖廷の尾の毛が伸びる事もなく、焼印が消える事もなかった。

*1:きおう

*2:以仁王

*3:正史の記述にはない

*4:三井寺の南院にある僧の宿所

*5:このした

*6:それほど恋しいのであればこちらへ来て見られるといい、私の身に寄り添って離れない影のようなこの鹿毛の馬を、どうして手放す事ができようか

*7:重盛の異母妹の高倉天皇中宮・徳子で、後の建礼門院

*8:嵯峨源氏の末裔で、摂津国渡辺に住み、その一党を渡辺党という

*9:げんじょうらく:舞楽の一曲で、蛇を捕まえて舞うしぐさがある

*10:木曾義仲の兄で、父の死後頼政に養われた

*11:なんりょう

*12:二本

*13:たてがみを切ったので、人の剃髪になぞらえてからかった