平家物語を読む96

巻第六 横田河原合戦*1

 八月七日、太政官庁にて大仁王会*2が行われた。これは、平将門を追討するため、天慶三年*3に行われた大仁王会にならったと聞く。九月一日には、藤原純友追討にならって、鉄の鎧・甲が伊勢大神宮に奉納された。勅使は祭事を主宰する伊勢神宮の神官の長・権大副大中臣定隆が勤めたが、都を発って近江国甲賀で病に倒れ、伊勢の離宮院で死んだ。謀反の者たちを祈祷によって負かすために、命じられて密教の五壇の法*4を行っていた大阿闍梨は、大行事権現の彼岸会を行う場所で死んでしまった。神も仏もこのような祈祷を受け入れないという事が明白である。また、命じられて大元の法*5を行っていた安祥寺*6阿闍梨から、修法の結願を報告するための目録を受け取り見てみると、そこには平家が祈祷によって負かされるとの旨が書いてあったというから恐ろしい。「これはどういう事だ」と聞くと、「朝敵を祈祷によって負かせとの命でございましたが、近頃の様子を見ていますと、朝敵はもっぱら平家の方であるように見えます。よって平家を負かすために祈祷を行いました。何の問題があるでしょうか」と言う。「この法師はけしからん。死罪か流罪にせよ」という事になったが、大小の事件に忙しく、その後何らかのとがめがあるという事はなかった。源氏の時代になってから、これを聞いた鎌倉殿*7が「感心な事だ」と、褒美としてその法師を大僧正にしたと聞く。
 十二月二十四日、高倉上皇中宮・徳子は建礼門院と称される事になった。天皇がまだ幼い時に、母后が院号となられるのは、これが始めてだと聞く。
 そうして養和も二年になった。二月二十一日、すばる星の中に金星が侵入した。天文要録*8には、「金星がすばる星を侵す時、四方の蛮人が蜂起する」とある。また、「将軍は勅命を受けて、国境を出る」とも書かれていた。
 三月十日、官を任ずる儀式が行われ、平家のほとんどの人々は位が上がった。四月十五日には、前権少僧都・顕真*9日吉社にて、法式にのっとって法華経一万部の要所を略読する事になった。仏道に縁を結びその効果を得るためにと、後白河法皇も参加なされていた。誰が言い出したのであろう、「法皇比叡山の僧たちに命じて、平家を追討なされようとしている」との噂が立ったため、兵士たちが内裏へ向い、四方の門にある衛士の詰所を警護した。兵士の一族は皆が六波羅へ急ぎ集まった。重衡卿は法皇をお迎えするために、総勢三千騎で、日吉社へと向った。一方、比叡山では、「平家は比叡山を攻めようと、数百騎の軍勢を率いて上ってくる」という噂が流れ、僧たちは皆、東麓の坂本に下りてどうしたものかと評議を行った。京中の騒ぎも、比叡山での騒ぎも並々ではない。公卿・殿上人は顔色を失い、北面の武士の中には余りに慌て騒いだため、胆汁を吐き戻す者も多かった。穴太*10の辺りで、重衡卿によって帰られる運びとなった法皇は「このような事ばかりでは、参詣なども今では思うようにはできないのであろうか」と嘆かれた。実際には、比叡山の僧たちが平家を追討するという事もなく、平家が比叡山を攻めるという事もなかった。どちらも根拠のない事である。「天魔が荒れ回ったに違いない」と人々は言い合った。四月二十日、二十二の神社*11へ臨時に供物が奉納された。これは、飢饉・疫病のためである。
 五月二十四日、改元が行われ、元号は寿永となった。また同日に、越後国の住人・城四郎助茂*12が越後守に任ぜられた。兄・助長の死が不吉であるからと、何度も辞退を申し入れたが、勅命であるのでどうにもならない。名を、助茂から長茂*13へ変えた。
 九月二日、城四郎長茂は木曾追討のために、越後・出羽・会津四郡*14の兵士たちを率いて、総勢四万騎で信濃国へ出発した。九日、信濃国の横田河原*15に陣を構えた。依田城にいた木曾の軍勢は、これを聞いて依田城を出ると、三千騎以上で横田河原へ向った。信濃の源氏である井上九郎光盛が、計略として平氏の旗である赤旗を七本作った。三千騎を七手に分け、あちらの峰、こちらの洞から、赤旗を掲げて押し寄せる。これを見た城四郎長茂は「何と、この国にも平家の味方をする人がいた」と、「勢力がついたぞ」と大声で勇んでいる。と、次第に近くまでやって来た七手の軍勢は、合図により一つになると、一度にどっと声を上げた。すかさず用意してあった白旗を掲げる。これを見た越後の軍勢は「敵は何十万騎いるのだろう、どうしたものか」と顔色を失い慌てふためき、川へ追い落とされたり足場の悪い険しい場所に追い詰められたりと、助かる者は少なく、討たれた者が多かった。長茂が頼みにしていた越後の山の太郎・会津の乗丹房*16などという評判の兵士たちも皆、ここで討たれた。長茂本人は、怪我を負い、死ぬべき命を何とか永らえて、川を伝って越後国へ引き上げた。
 九月十六日、都の平家はこのような敗残を意にも介せず、宗盛卿が大納言に還任した。十月三日には内大臣になり、七日に官位昇進のお礼を天皇に申し上げる儀式が行われた。これには、平家一門で公卿となっている人々十二人がつき従い、蔵人頭以下の殿上人十六人が先導を勤めた。東国・北国の源氏たちが蜂起し、今にも都を攻めにやって来ようとしているというのに、このように重大な事態に無関心な様子は、返って不甲斐なく思われた。
 そうしているうちに寿永二年になった。節会などはいつも通りに行われ、平家の内大臣・宗盛公が責任者を勤めた。一月六日、安徳天皇は年初めの儀式として、後白河法皇の御所である法住寺殿へと訪問なされた。鳥羽院が六歳の時がその例になったと聞く。二月二十二日、宗盛公は従一位になり、すぐその日に内大臣を辞任した。戦乱の責任を取っての謹慎であると聞く。この頃には、奈良の興福寺比叡山延暦寺の僧たち、熊野三山・吉野の金峰山の僧たち、伊勢大神宮の祭主・神官に至るまで、ことごとくが平家に背いて源氏の側についていた。四方に天皇の命を示し、諸国に法皇の命を知らせても、どちらも平家の指図によるものだと、従う者はいなかった。

―巻第六 終わり―

巻第六の月日

*1:よこたがわらのかつせん

*2:だいにんおうえ:仁王護国般若経を読んで、国家の平穏を祈祷する法会

*3:940年

*4:五大尊明王を本尊として、兵乱の鎮定などを祈祷する修法

*5:大元帥明王を本尊として、国家鎮護や怨敵降伏を修する法

*6:京都市山科区にある真言宗の寺

*7:源頼朝

*8:唐の天文・占星の要文を記した書

*9:けんしん:藤原顕隆の孫で、のちに61代の天台座主となった

*10:あなう:坂本の南

*11:伊勢神宮石清水八幡宮賀茂神社など

*12:すけもち

*13:ながもち

*14:会津・耶麻・大沼・河沼

*15:長野市篠ノ井横田、千曲川の西岸

*16:じょうたんぼう