平家物語を読む118

巻第八 名虎*1

 八月十日、後白河法皇の御所にて、官職を任命する儀式が行われた。木曾義仲は左馬頭になり越後国を与えられ、その上、朝日将軍という称号を下された。十郎蔵人行家は備後守になる予定であった。が、義仲は越後を嫌ったため伊予国を与えられ、行家は備後を嫌ったため備前国を与えられた。その他には、十人ほどの源氏が国司検非違使・靫負尉*2・兵衛尉になった。
 八月十六日、平家一門の約百六十人はその官職を解かれ、殿上人としての資格を奪われた。だが、大納言・平時忠、内蔵頭・信基*3、讃岐中将・時実*4の三人は例外であった。それは、安徳天皇及び三種の神器を都へ戻すようにと、法皇が時忠へ何度も命を下されていた事による。
 八月十七日、平家は筑前国三笠郡の大宰府*5へ到着した。都から平家のお供をしていた菊池二郎高直*6という者がいたが、「大津山*7の関を開けて参ります」と言って肥後国へ行ったきり、自分の城に閉じこもって呼んでも出てこようとはしない。平家に仕え続けたのは、太宰大監・種平の子である原田種直だけである。九州・壱岐対馬の兵士たちは、すぐに参上する事に承諾しながらも、いまだにやって来ない。平家は安楽寺*8を訪れ、歌を詠み、連歌を行い、神仏に奉仕をした。この時、本三位中将・重衡卿が、
   すみなれしふるき宮この恋しさは神もむかしにおもひしるらん*9
と詠んだ歌は、皆に涙を流させたのだった。
 八月二十日、後白河法皇の命により、故高倉上皇の四の宮が閑院殿*10にて、皇位につかれた。摂政は藤原基通殿のまま変わらなかったが、蔵人頭や蔵人は新しく任命された。三の宮の乳人は嘆き悲しんだが、後悔しても仕方がない。「天に二つの太陽がないように、国に二人の王はいない」と言われるが、今や平家の悪行により、都・田舎と二人の王がいらっしゃる事となった。
 昔、文徳天皇*11は天安二年八月二十三日にお亡くなりになったが、御子である宮たちの多くは、皇位に望みをかけ、以前から内々に祈祷を行っていた。一の宮は惟高親王で、小原の王子とも呼ばれていた。帝王にふさわしい才能と度量をお持ちで、世界の安危は手の平の中にあるように、百代の王政の治乱の様子は心の中にある思いのように、知る事ができる方であった。よって、賢聖の名にふさわしい王となると思われた。また、二の宮の惟仁親王は、当時の摂政・藤原良房公の娘である后の染殿*12が生母であった。藤原氏一門の公卿がそろって大切にお世話をしたので、この方もまたないがしろにはできない。惟高親王は先祖の定めた法を継承して国家を治める王の資質があり、惟仁親王の背後には国の政務を補佐できる藤原氏一門の大臣が控えている。どちらも外すのが気の毒で、誰もが悩まされた。一の宮・惟高親王の祈祷は、柿下の木僧正・真済*13といって、東寺一の長者である弘法大師の弟子が行っていた。二の宮・惟仁親王の祈祷は、外祖父・忠仁公の祈祷僧である比叡山の恵亮和尚が受け持っていた。「互いに優劣のつけ難い高僧である。簡単に事は解決しないのではないだろうか」と、人々はささやき合った。天皇がお亡くなりになると、公卿の評議が行われ、「そもそも臣下の者たちが皇位につく方を考えて選ぶという事では、選考に私情を挟むように見える。皆が非難するであろう。どうだろうか、競馬や相撲を行って、その運を知り、勝ち負けによって皇位を授けるというのは」という事が決まったのである。
 九月二日、二人の宮たちは右近衛府の馬場へ向われた。そこには装束や馬具を飾り立てた皇族に大臣・公卿が雲のように重なり、星のように連なっている。これは世にもまれな大事件で、天下の大いなる見物であり、日頃から次期皇位について心をめぐらせていた公卿・殿上人は、双方に分かれて手を握りしめ心を傾けていた。祈祷を行う高僧たちは、どちらも準備万端である。真済は東寺*14に壇を立て、祈祷を行う。恵良は大内裏の西南にある真言院に壇を立てていたが、「恵良和尚がいなくなった」と周囲に広めたのである。これを聞いて、真済僧正は油断するかもしれない。そう思いながら、恵良は心の限りを尽くして祈祷を行った。
 すぐに十番の競馬が始まった。始めの四番は一の宮・惟高親王が勝った。後の六番は二の宮・惟仁親王が勝った。すぐに相撲が行われる事になり、惟高親王の方からは、名虎の右兵衛督*15といって六十人分ほども力がある立派な人が前に出た。惟仁親王の方では、能雄の少将といって背が小さくて小作りで、相手の片手にさえ対抗できそうもない人が、惟仁親王が夢にてお告げを受けたという事で、前に出た。名虎と能雄は寄り合って、ひしとつかみ合う。少しの間を置いて、名虎は能雄をつかみ取って二丈*16ほども投げてしまった。が、能雄はすぐに立ち直って、再びつっと名虎に寄り、えいと掛け声を上げて名虎を組み伏せようとした。名虎も同時に掛け声を上げ、能雄を組み伏せようとする。どちらも劣っているようには見えない。けれども名虎は大きな男であるので、相手を威圧する勢いがあった。能雄の形勢が不利と思われ、二の宮・惟仁親王の母である染殿の遣わせた者たちが次々と恵良和尚のところへ走り寄った。「あの方はもう負けてしまいそうだ。どうするのか」と伝えると、大威徳の法*17を行っていた恵良は、「これは心苦しい事だ」と言って、独鈷*18を手に持って脳髄を打ち砕くと、それを乳木に混ぜて焚き、黒い煙が立つ中、両手で数珠を激しくもみ合わせたのである。能雄は相撲に勝った。よって、二の宮・惟仁親王皇位につかれる事となった。清和天皇*19の事である。後には、水尾天皇とも呼ばれた。これ以降、比叡山では「恵良が脳髄を砕けば次弟が帝位につき、尊意*20智慧の剣を振るえば菅原道真の怨霊は降伏する」という言い伝えができ、ほんのわずかな事に対しても引き合いに出されるようになったという。仏法の力によって皇位につかれたのはこの清和天皇だけで、その他は皆、天照大神のお計らいによると言われている。
 平家は西国にてこの事を伝え聞き、「心穏やかではいられない。三の宮も四の宮も、すべて連れて都を出るべきだった」と後悔していた。大納言・時忠卿が「もしそうだとしても、出家して、乳父である讃岐守・藤原重秀と共に北国へ向っていた故高倉の宮*21の御子を、木曾義仲は都に連れ戻し主君に仕立て上げたのだから*22、その木曾の宮を皇位につけるのではないか」と言うと、ある人は「それは一体、出家した宮を、どうやって皇位につけるというのか」と言う。時忠卿は「そうではない。還俗した人が国王になった例は、異国にもあるし、我が国でも、まず天武天皇*23はまだ皇太子でいらっしゃった時、兄・天智天皇の御子である大友皇子に気兼ねされ、髪を剃って吉野の山奥に入られたが、その後、大友皇子を滅ぼして終にはご自身が皇位につかれた。また、聖武天皇の第一皇女であられた孝謙天皇*24も、仏道を行う心を起こし、髪を下ろして法基尼という法名を名乗られたが、再び皇位について、称徳天皇と号された。ましてや、木曾義仲が主君に仕立て上げた還俗の宮ならば、言うまでもあるまい」と言った。
 九月二日、後白河法皇は伊勢へ、四の宮の即位を伝えるために公卿の使者を送られた。使者は参議・藤原長教*25と聞く。退位した天皇が伊勢へ公卿の勅使を送られた事は、朱雀*26・白河*27・鳥羽*28三代でも先例があったが、これらは皆、出家以前に行われた事である。出家以後の例は、これが始めてと聞く*29

*1:なとら

*2:ゆげのじょう:衛門府の官人の三等官

*3:のぶもと:時忠の叔父である信範の子

*4:ときざね:時忠の長男

*5:現福岡県太宰府市で、九州・壱岐対馬を管轄する役所が置かれていた

*6:九州の謀反を平定した肥後守平貞能と共に、七月十四日に都へ入ったと、巻第七「主上都落」にある

*7:熊本県玉名郡南関町の北部にある山

*8:今の大宰府神社

*9:住み慣れた故郷を恋しく思っている我々の気持ちを、祭神である菅原道真公は自身の体験に照らしてよくご存知である事だろう

*10:高倉上皇の里内裏

*11:第55代の天皇

*12:藤原明子

*13:しんぜい

*14:京都市南区九条町にある真言宗の寺・教王護国寺

*15:惟高親王の生母・静子の父

*16:約6メートル

*17:五大明王の一つで、大威徳明王を本尊として修する祈祷

*18:密教の修法に用いる仏具の一つ

*19:第56代天皇

*20:第13代天台座主

*21:以仁王

*22:巻第四「通乗之沙汰」参照

*23:第40代の天皇

*24:第46代の天皇

*25:ながのり(脩範):藤原通憲信西)の五男

*26:第61代天皇

*27:第72代天皇

*28:第74代天皇

*29:伊勢神宮は仏法を忌み、僧尼の参詣を認めなかった