平家物語を読む82

American Pipit

巻第五 五節之沙汰*1

 ところが平家側では何の音もしない。人に様子を見に行かせると、「皆、逃げています」と言う。中には敵の忘れた鎧を取ってくる者や、敵の捨てた大幕*2を取ってくる者もいて、「敵の陣地には蝿一匹すら飛んでいません」と言う。兵衛佐・頼朝は馬から下りて甲を脱ぎ、手を洗いうがいをして、はるか遠くの帝都を拝んだ。「これはまったく以て、私の手柄ではない。八幡大菩薩*3のおはからいである」そして、すぐに領地とする場所であるからと、一条次郎忠頼*4には駿河国を、安田三郎義定*5には遠江をゆだねた。このまま平家を攻めるべきではあるが、さすがに後方も気がかりであるという事で、浮島が原から退いて相模国へと帰った。
 東海道沿いの宿の遊女たちは、「何とあきれた事でしょう。討手の大将軍は矢の一本も射ずに逃げ帰ったとは情けない。戦とは、それを目の当たりにして怖くなり逃げるというのでも見苦しいものであるのに、耳にするだけで怖くなり逃げ出すとは」と言って笑い合った。平家をからかった内容の文書が人目につくように張られる事も多かった。都の大将軍の宗盛を「棟守り」、討手の大将軍の権亮(ごんのすけ)の「すけ」を「助柱」と掛け、平家を「ひらや」と読みかえたこんなものまである。
 ひらやなる宗盛いかにさわぐらんはしらとたのむすけをおとして*6
 富士河のせゞの岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏かな*7
また、侍大将の上総守・忠清(ただきよ)が富士川に鎧を捨てた事を詠むものもあった。
 富士河によろひは捨てつ墨染の衣たゞきよ後の世のため*8
 たゞきよはにげの馬にぞのりにける上総しりがいかけてかひなし*9
 十一月八日、大将軍の権亮少将・維盛は新都の福原に戻りついた。清盛公は非常に怒って、「大将軍の権亮少将・維盛は鬼界が島へ流せ。侍大将の上総守・忠清は死罪にせよ」と言った。翌九日、平家の侍たちは老いも若きもが集まり、忠清の死罪をどうするかと話し合った。主馬判官・平盛国が進み出て、「忠清は昔から思慮の浅い者とは聞いていません。あれが十八歳の時と思いますが、五畿*10一の悪党の二人が、鳥羽殿の宝蔵に逃げ込んでこもっていた事がありました。近付いて捕らえようという者もいなかったのに、白昼、ただ一人で塀を乗り越えて中に入り、一人は討ち取り、もう一人は生け捕りにし、後世に名を残したのが忠清です。今回の失敗は、尋常の事とは思えません。これを思っても、よくよく戦乱鎮定のための祈祷を行うべきです」と言った。
 十一月十日、大将軍の権亮少将・維盛は、右近衛中将になった。「討手の大将とは聞いていたが、これといった手柄があった訳ではない。これは何の褒美だろう」と人々はささやき合った。
 昔、平将門を追討するために、平貞盛*11藤原秀郷が坂東へ向かった。将門がなかなか滅びないので、続けて討手を送ることが公卿の間で評議され、藤原忠文*12と清原重藤が軍監*13という官を任じられ、坂東へと赴いた。重藤が果てしなく広がる海を眺めて、「釣り舟の漁り火は寒々と波を焼くかのようで、駅路の鈴の音で夜中に旅人が山道を行くのがわかる*14」という漢詩を声高らかに口ずさむと、忠文は感動して涙を流した。そうしているうちに貞盛と秀郷はついに、将門を討ち取っていた。その頭を持って都へ向かっている時に、双方は清見が原で出くわした。よって共に都へと戻った。貞盛と秀郷に褒美を与える時、忠文と重藤にも与えるべきかと公卿は評議を行った。当時は権中納言の右大臣・藤原師輔*15殿は「坂東へ向かった追手が簡単に将門を滅ぼす事ができずにいるところへ、命令を受けた忠文と重藤が東へ赴こうとしていた時、将門は滅びたのである。よってどうして褒美が与えられない事があろうか」と言ったが、藤原実頼*16殿が「『疑わしい事ならば、行わない事』と礼記の中にある」と言ったので、結局、褒美は与えられなかった。忠文はこれを悔しんで、「実頼殿の子孫を奴僕にして見下してやろう。師輔殿の子孫にはいつの世までも守護神であろう」と誓いながら干死にした。よって師輔殿の子孫は栄えたけれども*17、実頼殿の子孫からは立派な人は出ず、今では絶えてしまったという。
 一方、清盛公の四男である頭中将・重衡は、左近衛中将になった。十一月十三日、福原では内裏が完成し、天皇が遷られた。大嘗会*18が行われるべきではある。が、大嘗会とは十月の末に賀茂川天皇が身を清められ、大内裏の北の野に造った斎場所に神服・神具を準備し、大極殿の前庭の石の廊下に建てた廻立殿で天皇が沐浴され、廻立殿と同じ並びに作った大嘗宮に膳部を供えるものである。御神楽があり、催馬楽の奏楽が行われるものだ。大極殿で即位の大礼があり、清暑堂では御神楽が、豊楽院では宴会が行われるものである。ところがこの新都・福原には、大極殿はなく、大礼を行えるような場所すらない。清暑堂もなく、御神楽を奏する事もできない。豊楽院もないので、宴会も行われない。今年はただ、新嘗会・五節*19だけを行う事が公卿の評議によって決まり、新嘗会は旧都の神祇館にて行われた。
 五節とは、天武天皇*20が吉野宮滝の離宮で、月の白い激しい嵐の夜に心を込めて琴を弾かれた時、神女が天から下りてきて五回その袖を翻した事が始まりである。





*画像の鳥は、American Pipit(アメリタヒバリ)のようです。

*1:ごせつのさた

*2:陣営などの周囲に張り巡らす大きな幕

*3:源氏の守護神である八幡神の本地を菩薩としたものの称号

*4:ただより:甲斐源氏

*5:甲斐源氏

*6:「平屋の棟守りはどんなにうろたえている事であろう、柱とも頼りにしていた助柱(支柱のこと)を落としてしまって」→「平家の宗盛はどんなにうろたえている事であろう、柱とも頼りにしていた権亮がいなくなってしまって」

*7:富士川の淵瀬の岩を越す水の流れよりもずっと速く流れ落ちる伊勢産の瓶子(へいじ)であることよ」→「富士川の淵瀬の岩を越す水の流れよりもずっと逃げ足の速い伊勢平氏である事よ」

*8:富士川に鎧を捨てては武士失格、この上はただ着よ(「忠清」と掛けている)墨染めの衣を、平家の後世を弔うために」

*9:「忠清は白と黒の二毛(「逃げ」と掛けている)の馬に乗っていたので逃げ足も速かったのだろうが、それではせっかく立派な上総しりがいを掛けていても甲斐がないであろう」

*10:山城・大和・河内・和泉・摂津

*11:桓武平氏で、平国香の長男

*12:宇治民部卿

*13:ぐんけん:大将軍・副将軍に次ぐ職名

*14:「漁舟火影寒焼浪浪、駅路鈴声夜過山」和漢朗詠より

*15:もろすけ:藤原忠平の次男

*16:藤原忠平の長男

*17:道隆・道兼・道長の三子が摂政や関白になり、道長の子孫は摂関家として栄えた

*18:だいじょうえ:天皇が即位後に初めて行う新嘗会

*19:新嘗祭の後に行われる舞

*20:第40代の天皇