平家物語を読む178

花

巻第十一 腰越*1

 さて、大臣・宗盛公が九郎大夫判官・義経に連れられて、東国への交通の要衝である粟田口*2を過ぎたのは、五月七日の早朝の事だった。既に皇居は雲の彼方となった。逢坂の関の清水を見て、宗盛公は泣きながらこう詠んだ。
   都をばけふをかぎりのせきみづにまたあふさかのかげやうつさむ*3
道中も、宗盛公は余りに不安そうに見える。義経は情けのある人だったので、何かと慰めの言葉を掛けた。「何とかして、今回は命を助けてください」と宗盛公が言うと、義経は「遠国、海上はるかの島へもお連れしたりはしません。よもやお命を失われるような事はありますまい。たとえそのような処断がなされたとしても、この義経の勲功に対する恩賞と引きかえに、お命だけはお助けします。ご安心なさってください」と頼もしげに言ったというのに、「たとえ蝦夷の住む千島であったとしても、生きていても甲斐のない命が助けられるのなら構わない」と宗盛公が言ったのは、情けない事であった。こうして旅の日が重なり、五月二十四日、とうとう鎌倉へ着いたのだった。
 ところで鎌倉では、梶原景時義経に先手を打って、鎌倉殿にこのような事を告げていた。「日本国は、今となっては一つ残らず従うようになりました。ただし、弟でいらっしゃる九郎大夫判官・義経殿こそ、最後に残る仇敵であるように思われます。一の谷の戦の際、『一の谷は上の山から攻めなかったならば、東西の木戸口を破る事は難しかっただろう。生け捕りも討ち取った首も、この義経にこそ見せるべきであるのに、物の役にも立たない蒲殿*4の目に入れなければならないという法があるだろうか。本三位中将・重衡卿をこちらへ渡さないというのであれば、義経が直接に出かけて行って渡してもらおう』と、今にも同士討ちになりそうでありましたのを、この景時が土肥次郎実平と相談して、重衡卿を土肥次郎に預けたからこそ落ち着かれたのです。これが、すべてを表しています」これを聞いた鎌倉殿がうなずいて「今日、九郎が鎌倉へ入るそうだから、皆様方、用意をしておいてください」と言ったので、大名・小名が急ぎ集まり、その数は程なく数千騎に及んだ。
 義経が金洗沢*5に着くと、そこには関が設けられていた。宗盛公父子だけが引き取られ、義経は腰越*6に追い返された。鎌倉殿は七重、八重にも警護の武士をおいて、自身はその中に座ったままで「九郎は機敏な男であるので、この畳の下からでも這い出ようとするであろう。ただし頼朝はそうはさせない」と言った。義経は「去年の正月に木曾義仲を追討してからこれまで、一の谷、壇の浦に至るまで、命を捨てて平家を攻め落とし、三種の神器八咫鏡*7と、八尺瓊勾玉*8が納められている箱を無事にお返しし、大将軍父子を生け捕りにしてここまで連れて来た上は、たとえどのような不都合があったとしても、一度は対面するべきではないのか。本来ならば、私は九州全体の追補使*9にもされて、山陰・山陽・南海道のどれかを預けられ、その守備を任せられるものと思っていたのに、わずかに伊予国の国務だけを執り行うようにと命じられ、鎌倉へさえも入れないとは不本意である。これは一体、どういう事か。日本国を鎮めたのは、義仲・義経の仕業ではないのか。言ってみれば、同じ父の子でも、先に生まれたのを兄とし、後に生まれたのを弟とするだけの事だ。誰でも、天下を治めようとすれば治められない事はない。その上、今回の対面さえも叶わずに追い返されるとは、残念で仕方がない。これでは、謝りようがない」とつぶやいたが、どうしようもなかった。まったく不忠などない事を、何度も神仏に誓いを立てて記した文書をもって伝えたが、景時の告げ口により、鎌倉殿は信用しようとしなかった。義経は泣く泣く一通の手紙を書いて、大江広元のもとへ遣わせた。
源義経、恐れながら思う事を申し上げます。私はあなたの代理の一人に選ばれ、後白河法皇の命を受けた追討使として、朝敵を滅ぼし、戦に敗れた恥辱をすすぎました。勲功に対する恩賞を与えられるはずが、あなたは思いもよらない恐ろしい中傷の言葉を信じられ、莫大な勲功を黙殺されました。義経は何の罪もないのにとがめを受けています。勲功はあって何の過失もないというのに、あなたの怒りに触れているため、虚しい涙に暮れています。事実を曲げて伝えた者の真偽を確かめられず、鎌倉の中へ入れていただけないうちは、私の本心を述べる事はできません。いたずらに数日を送っています。このまま、長くお目にかかる事ができなければ、骨と肉を分け合った兄弟としてのよしみも絶え、この世に兄弟として生まれる事に決まっていた前世からの運命も、虚しいものとなってしまうと思われます。それとも、私は前世の悪業の報いを受けているのでしょうか。悲しい事に、亡き父である左馬頭・義朝殿の霊が再びこの世にお生まれにならない限りは、誰が私の心の悲しみを弁明してくれるでしょうか。一体誰が哀れみの心を持ってくれるでしょうか。今更めいた言い分、愚痴のようではありますが、義経は父母から身体を授かってから、幾ばくも時節を経てはいません。左馬頭・義朝殿が他界されたので、孤児となり、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡*10に赴いてからこれまで、片時たりとも心が安らぐ事はありませんでした。生きていても甲斐のない命とはいえ、都を出歩く事は難しかったので、あちらこちらの村里に身を隠し、辺地・遠国を住みかとして、地方の百姓たちに召し使われました。けれども幸運がたちまちに巡ってきて、平家一族の追討のため都へ向かう手始めに、木曾義仲を誅戮の後、平氏を滅ぼすために、ある時は険しくそびえ立った岩山を駿馬に鞭打って駆け下り、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は満々と水をたたえた大海を風や波を乗り越えて漕ぎ渡り、海底に沈む事もいとわずに、屍を鯨に食われる覚悟で臨みました。それだけではなく、甲冑を枕とし弓矢を本業とする武士としての本心である、すべての亡魂の憤りを鎮めて、長年の宿願を遂げようという事以外、他事はありませんでした。その上、義経が五位尉に任命されたという事は、当源氏にとって重職であり、これに過ぎた栄誉はありません。そうであるというのに、今はただ愁い深く、嘆くほかありません。仏神のご加護による以外は、どうして私の願いをお耳に入れる事ができるでしょう。よって諸神・諸社の厄除けの護符をもって、野心を差し挟んではいない旨を、日本国中の大小の神々や冥界の仏たちの来臨を願い、真実を訴え、書き記した数通の文書をお渡ししましたが、それでもなおお許しはありません。我が国は神国であります。神は非礼を納受しません。頼むところは他にありません、ひとえに広元殿の広大な慈悲を願います。機会を窺い、鎌倉殿のお耳に入れ、密かな手立てをめぐらしてください。過失のない事が聞き届けられ、お許しをいただけたならば、その善行の報いは一門の人々の上も及び、栄花は長く子孫に伝えられるでしょう。よって長年に渡る心配が片付き、一生涯の間の安心を得られるでしょう。義経、恐れ謹んで申し上げます。
 元暦二年六月五日    源義経    因幡守・大江広元殿へ

*1:こしごえ

*2:三条通から山科を経て大津に通じる街道の入口

*3:今日が最後と都を旅立って行くが、再びこの逢坂の関の清水に私の影を映す事ができるだろうか

*4:範頼

*5:かねあらいざわ:現鎌倉市七里ガ浜の行合川の西の海岸

*6:鎌倉市腰越

*7:やたのかがみ

*8:やさかにのまがたま

*9:づいぶし:諸国の警備のために朝廷から派遣される職

*10:奈良県宇陀郡と吉野郡の辺り