平家物語を読む177

巻第十一 副将被斬*1

 五月七日、九郎大夫判官・義経が生け捕りにした平氏の人々を連れて、関東へ赴くという噂が流れた。これを耳にした宗盛公は義経のもとへ使者を送り「明日、関東へ向かうと聞きましたが、親子の愛情のつながりはなかなか断ち切る事のできないものです。生け捕りになった者の中で、『八歳の童』と名簿に書き付けられている者は、今のこの世にいるのでしょうか。もう一度、会いたいのです」と伝えた。義経は「愛情を断ち切るのは誰にも難しい事ですから、そう思われるのは当然の事です」と返事をすると、宗盛公の幼い息子を預かっている河越小太郎重房*2に「若君を、宗盛殿のもとへ連れて行くように」と命じたので、河越小太郎は人に車を借りて、若君を乗せ、女房二人も一緒の車に乗って、宗盛公のもとへと向かった。
 若君は久しぶりに父親と対面して、いかにも嬉しそうであった。「さあ、こちらへ」と言うと、すぐに膝の上に座った。宗盛公は若君の髪を撫でながら涙をはらはらと流して、警護に当たる武士たちに言った。「この子はね、皆さん聞いてください。母もない者なのですよ。この子の母は、お産は無事にしたのですが、それからすぐに寝込んでしまいました。苦しみながら『どなたの腹に子をもうけられたとしても、この子への愛情は他の子へ移さずに育てて、私の形見として大事にしてください。手もとから放して、乳母などのもとへはやらないでください』と言っていた事が不憫で、この子の兄であるあの右衛門督・清宗が大将軍として朝敵を平定する時には、この子には副将軍をさせようと、名を『副将』としたところ、いかにも嬉しそうな顔をして、死ぬ間際まで、名を呼んでかわいがっていましたが、七日目には亡くなってしまったのです。この子を見る度に、その事が思い出されて仕方がありません」宗盛公が涙をとどめかねているので、警護の武士たちも皆が袖を涙で濡らした。右衛門督・清宗も泣いたので、乳母も袖で涙を拭った。大分時間が経ってから、宗盛公が「それでは副将、すぐに帰れ。会えて嬉しかった」と言っても、若君は帰ろうとしない。清宗がこれを見て、涙をこらえながら「さあ副将殿、今夜はすぐに帰りなさい。もうすぐ客人がやって来るのです。明日また急ぎ来なさい」と言っても、父親の白い衣の袖にひしと取り付いて「いやだ、絶対に帰らない」と泣いていた。
 そうしているうちに時間も随分経ち、日も暮れ始めた。いつまでもそうしてはいられないので、乳母の女房が抱き上げて、車に乗せた。二人の女房たちは袖を顔に押し当てて、泣きながら暇を告げ、共に帰途に着いた。宗盛公は車の後姿をいつまでも見送り「これまで会えずにいた時の恋しさは物の数ではない」と悲しんだ。この若君は母親の遺言が不憫であったからという事で、乳母のもとへはやらずに、一日中、宗盛公のそばで育てられたのである。三歳に元服が行われ、「義宗*3」と名付けられた。育つにつれ、容貌は美しく、心も優美になっていったので、宗盛公もいとしく、かつ不憫に思い、西海の旅の空の下、波の上の船の住までも、片時も離れた事はなかった。それなのに、平家が戦に敗れて後は、お互いが今日初めて対面したのである。
 河越小太郎が義経のもとへ行って「さて、若君の事ですが、どのようにお計らいになりますか」と尋ねると、義経は「鎌倉まで連れて行くには及ばない。お前、どうなりともこちらで処分せよ」と言った。よって河越小太郎は車を寄せて、二人の女房たちに「宗盛殿は鎌倉へ向かわれますが、若君は都にとどまられる事になります。この重房も鎌倉へ向かいますから、その間は緒方三郎維義*4にお預けする事になりました。すぐにお乗りください」と言った。若君も何の疑いもなく車に乗り込んだ。「また、昨日のように父のもとへ行くのか」と、喜んだというから悲しい事である。車は六条大路を東へ、つまり六条河原の方へ向かって進む。女房たちが「おや、おかしな事をするものだ」と呆然としていると、少し後ろに離れた所から、五、六十騎の兵士たちが河原へ駆け出てきた。すぐに車を止めさせて、敷皮をしくと「お降りになってください」と言うので、若君は車から降りた。疑いを持った若君が「私をどこへ連れて行こうとしているのか」と問うが、二人の女房たちはどう返事をしていいか分からない。河越小太郎の従者が太刀を脇に引き付けて、左側から後ろに立ち回り、今にも若君を切ろうとした時、若君はこれに気付いて、もう逃れる事はできないというのに、急ぎ乳母の懐の中へと逃げ込んだ。気丈な武士とはいえ、さすがに引っ張り出す事もできずにいると、乳母は若君を抱えて、人が聞くのもはばからずに、天を仰ぎ地に伏して、うめき叫んだ。その心の内を思うと気の毒な事この上ない。こうして時間が随分経ってから、河越小太郎が涙をこらえて「今となってはどのように思われても、助かる事は叶いません。速やかに」と言うと、従者は乳母の懐から若君を引っ張り出し、腰に差していた短刀で押し伏せて、ついに首を切ってしまった。勇猛な武士たちも、さすがに岩木のように感情がない訳ではないので、皆が涙を流した。義経の目に入れようと、首は持っていかれた。が、追いすがるようにやって来た乳母の女房が「何のさしさわりがあるでしょうか。御首を受け取って、後世を弔う事に」と言うのを見て、義経も哀れに思い、涙をはらはらと流すと「そのように思われるのも致し方ない事です。そうするのが一番いいでしょう。早く持って行きなさい」と、首を渡した。乳母の女房はこれを懐に入れて、泣きながら都の方へ戻ったようであった。その後、五、六日して、桂川*5に、女房二人が身を投げるという事件があった。そのうちの一人、幼い人の首を懐に抱いて沈んだのは、この若君の乳母の女房であった。もう一人、胴体を抱いていたのは、介添えの女房である。乳母が身投げを決心するのはやむを得ない事であるが、介添えの女房までも身を投げるとは、めったにない事であった。

*1:ふくしょうきられ

*2:重頼の長男

*3:よしむね:能宗とも

*4:これよし

*5:京都南西部を流れる大堰川下流