平家物語を読む92

Tufted Titmouse

巻第六 築島*1

 他ならぬその葬送の夜、不思議な事がたくさん起こった。玉を磨いて金銀をちりばめて作られた西八条殿が、その夜突然、焼けてしまったのだ。人の家が焼けるのはよくある事であるが、これには驚かされた。何者の仕業かというと、放火だったと聞く。またその夜、六波羅の南の辺りから、人で言うなら二、三十人の声が「うれしや水、なるは滝の水」と拍子を取って舞い踊り、どっと笑うのが聞こえた。昨年の正月には高倉上皇崩御されて、国中が喪に服している。清盛公が亡くなったのはそれからわずか一か月後の事だ。身分の低い男・女までも、憂鬱にならずにはいられない。これはどう見ても天狗の仕業だという事になり、平家の侍の中から血気にはやる若者たち百人ほどが、笑い声を頼りに進んでいった。すると、後白河法皇の御所ではあるが、この二、三年は法皇もお訪ねになる事のなかった法住寺殿にたどり着き、そこに留守番を担当している備前前司・基宗という者がいた。この基宗の知人二、三十人が、夜に紛れて法住寺殿に集まっていた。始めは「このような時であるから、静にしろ」と言って酒を飲んでいたが、次第に酔っ払い、あのように舞を踊っていたのである。平家の侍たちはばっと押し寄せて、酔っ払いたちを一人残さず三十人ほど捕まえて、六波羅へ連れて帰り、宗盛卿の待つ中庭に座らせた。事の次第をよく聞いた上で、「とはいえそれほど酔った者たちを、切る訳にもいかない」と、皆が許された。人が亡くなった後には、身分の低い者が朝夕に鐘を打ち鳴らし、朝には法華懺法*2を読んで罪を懺悔し、夕には阿弥陀経を読んで念仏を唱えるのが習慣であったが、この清盛公が亡くなった後は、仏を供養し僧に布施をするという事も行われなかった。朝夕とも、ただ戦の計略が相談されるばかりであった。
 清盛公の最後の様子は余りに無残でやりきれないものであったが、実際には普通の人とは思われない事が多い人であった。日吉神社へ参詣した時にも、平家・他家の公卿が多く連れ立ち、「摂政関白が春日神社に参詣したり、新任後、宇治の平等院に初めて参詣したりする時にも、ここまでではないのでは」と人々は言い合った。また何よりも、福原の「経の島*3」については、今に世に至るまで、都と九州とを往来する船に波風の心配がないようにしたのは見事であった。この「経の島」は、永暦二年*4二月上旬に築き始められたが、同年八月の急な大風と大波によって、すべて崩れ去ってしまった。応保三年*5三月下旬、阿波民部・田口成能*6が築港の担当を任じられた。この時、人柱を立てるべきだなどという公卿の評議があったが、清盛公が「それは罪業である」と、石に一切経を彫って代わりにした。それからこの港を往来する船は波風に悩まされる事もなくなり、港は「経の島」と呼ばれるようになったという。





*画像の鳥は、Tufted Titmouse(エボシガラ)です

*1:つきしま

*2:罪障を懺悔する作法を記した

*3:現神戸市兵庫区内に築かれた港

*4:1161年

*5:1163年

*6:しげよし:阿波国の豪族で、平家に仕え重要な位置にあった