平家物語を読む91

巻第六 入道死去

 その後、四国の兵士たちは皆が河野通信に従うようになった。平家から度重なる恩賞を受けていた熊野の長官である湛増*1までもが、源氏の側についたとの噂も聞かれた。東国・北国のほとんどすべてが平家に背き、紀伊・四国・九州もその例外ではなかった。東方と北方の蛮人たちの蜂起は人々を驚かせ、反乱の前ぶれとなる事件が次から次へと伝えられた。四方の蛮人の決起は瞬く間であった。今にもこの世は乱れるだろうと、平家一門の者でなくとも、情のある人でこれを嘆き悲しまない人はいなかった。
 二月二十三日、公卿による評議が行われた。前右大将・宗盛卿が「昨年十月には坂東に維盛の追討軍が向かったが、これといった成果はなかった。今回はこの宗盛が大将軍として赴こう」と言うと、公卿たちは皆がそれにこびへつらって「そうであるならすばらしい事でしょう」と言った。公卿・殿上人であっても、武官の職につき弓矢に関わりを持っている人たちは、大将軍・宗盛卿に従って東国・北国の謀反を働く者たちを追討するようにと、後白河法皇から命が下された。
 二月二十七日、宗盛卿が源氏追討のために東国へ出発しようとしていたところ、清盛公が異常な状態にあるという事で出発は取りやめになった。翌二十八日には重病であるとわかり、京中の人々・六波羅の人々は「それ見た事か」とささやき合った。清盛公は病にかかった日以来、水を飲む事さえできずにいる。体の中がまるで火を焚いているかのように熱い。清盛公が寝込んでいる場所まで四、五間のところまで行った人は、その熱さが耐えられないほどであった。清盛公はただ「熱い熱い」と言うばかりである。とても普通の病には見えなかった。比叡山の千手井*2からくんだ水を石で作った水槽に入れ、そこに清盛公の身体を沈めて冷やそうとすると、水は激しく沸き立ってすぐに湯になってしまった。もしかして少しでも楽になるかもしれないと、樋を使って水を引いたが、焼けた石や鉄に落ちた時のように水は飛び散ってしまい役に立たない。たまたま当たった水は炎となって燃え、その煙が殿中に満ち、炎は渦を巻いて立ち上がった。昔、法蔵僧都*3という人が、閻魔大王に招待されて地獄に赴き、死んだ母親が生まれ変わった場所を尋ねたところ、閻魔大王はこれを哀れんで、獄率に焦熱地獄*4を案内させた。鉄の門の中へ入ると、流星のように炎が空へと立ち上がり、その高さは数十里にも及んだというが、それがどんなものであったかを人々は今こそ知ったのである。
 清盛公の北の方である従二位・時子殿が見た夢は恐ろしいものであった。激しく炎が燃え上がる車が門の中へ入ってきた。前後には馬や牛のような顔をした者が立っている。車の前には「無」という文字だけが書かれた鉄の札が立てられていた。時子殿が夢の中で、「あの車はどこから来たのですか」と尋ねると、「閻魔庁から、平家太政入道殿のお迎えにやって参りました」と答える。「ではその札は何という意味でしょうか」と聞くと、「人間界の金銅十六丈の大仏*5を焼いて滅ぼした罪により、無間地獄の底に堕ちるという事が、閻魔庁で定められたのですが、無間の「無」が書かれただけで、まだ「間」が書かれていないためです」と言う。時子殿はあまりの事に驚き、汗がふき出した。この事を人に話すと、聞いた人は皆、身の毛がよだった。霊験あらたかな神社・寺院に金・銀・瑠璃などの七宝を供え、馬・鞍・鎧・甲・弓・矢・太刀・刀に至るまでを運び出して回復を祈ったが、その効果はなかった。公達は清盛公の枕元に膝をついて、どうすればいいのですかと嘆き悲しんだが、願いが叶うようにも見えない。
 翌月の閏*6二月二日、時子殿は耐え難い熱さの中、泣きながら清盛公の枕元でこう言った。「ご様子をうかがっていると、日に日に回復の望みが薄れていくように見えます。この世に伝えておくべき事がおありでしたら、少しでも意識がはっきりしているうちにおっしゃって下さい」普段はいかにも立派でりりしい様子だった清盛公も、今は本当に苦しそうに、息も絶え絶えに話し始めた。「私は保元・平治の乱よりこれまでに、何度も朝敵を倒し、身に余るほどの恩賞をいただいてきた。恐れ多くも、天皇の祖父・太政大臣にまで至り、その繁栄は子孫にまで及んでいる。今生で望んだ事は何一つとしてやり残した事はない。ただ一つ心残りなのは、伊豆国の流人の前兵衛佐・頼朝の首を見ずに死ぬ事だ。私がどうにかなった後は、堂塔も立てる必要もないし、供養をする必要もない。すぐに東国に討手を送り、頼朝の首をはねて、それを私の墓の前に掛けなさい。それこそが私に対する供養である」このように言ったというから、本当に罪業が深い。
 閏二月四日、清盛公は病に苦しむ余り、せめてもの手段として水を注いだ板の上に横になったが、助かる気もしなかった。もだえ苦しみ倒れた清盛公は、ついに死んだ。弔問のための馬や車が激しく行き来し、その音は天にも響き、大地をも揺るがすほどであった。天下を治める天皇にこのような事があっても、ここまでではないと思われる。清盛公は今年、六十四歳であった。老いによって死んだ訳ではないが、運命が尽きてしまうと、密教の特別の修法も効果がなく、神や仏の威光も消え、仏法の守護神も守ってはくれない。ましてや人間の思慮によってどうにかできるはずがあろうか。命も体も捧げると忠義を尽くす数万の軍勢が、殿上の間にもその外にもたくさんいたけれど、目にも見えず力でもどうする事もできない無常という殺鬼では、少しの間も撃退する事ができない。死出の山*7、三途の川を行く二度と帰って来る事はできない冥界の四十九日間の旅に、清盛公はたった一人で向かってしまった。日頃から行っていた悪業が獄率となって迎えに来たのだろう。気の毒な事であった。
 いつまでもそのままにしておく訳にはいかないので、閏二月七日、愛宕にて清盛公は煙となった。その骨は、円実法眼*8が首に掛け摂津国へと向かい、経の島*9に納められた。あれだけ日本に名をとどろかせ、権威を振るった人であったが、その身体は一時の煙となり都の空に立ち上り、屍はしばらく留まった後、浜の砂に戯れていつしか虚しき砂となったのである。

*1:たんぞう

*2:比叡山の東塔西谷の行光坊の下にある井戸

*3:ほうぞう:第46代の東大寺の長官

*4:八大地獄の一つで、火熱の苦しみを受けるとされる

*5:東大寺の大仏の事

*6:うるう:太陰暦によって三年に一度生じる余分な一ヶ月で、前月名の前に「閏」を冠する

*7:しで:亡者が初七日に越えるという険しい山

*8:えんじつ:左大臣・藤原実能の子で、実定の叔父に当たる

*9:現神戸市兵庫区の南部の北浜