平家物語を読む180

紅葉始まる

巻第十一 重衡被斬*1

 本三位中将・重衡卿は、狩野介宗茂*2に預けられ、去年から伊豆国にいた。が、奈良の寺院の僧徒たちが再三に渡って引き渡しを要請したので、「それならば渡せ」と、源三位入道・頼政の孫である伊豆蔵人大夫・頼兼がその任務を命じられた。よって重衡卿は奈良へ出発した。都には入れずに、大津から山科を南下する街道を経て奈良へ向かい、醍醐路*3を進む。ここから日野*4は程近い。この重衡卿の北の方というのは、五条大納言・邦綱*5の娘で、故安徳天皇の乳母であった大納言佐殿*6である。重衡卿が一の谷で生け捕りにされて後も、安徳天皇のそばに仕えていたが、壇の浦で海に入ろうとしたところを、荒々しい武士に捕らわれて都へ戻り、姉の大夫三位*7と同じ宿所に身を寄せて、日野という所にいた。重衡卿の命が草葉の先にたまる露のように今にも落ちそうでありながら辛うじて残っている事を耳にしてからは、今度は夢ではなく現実に会いたいと思っていたが、それも叶わない上はせめて泣くことで自身を慰めては暮していた。
 重衡卿は守護の武士に「この度、何につけても情け深いありがたい心遣いをして下さる事は、誠に嬉しい限りです。つきましては、最後にお願いした事があります。私には一人の子もいないので、この世に心残りはないのですが、長年連れ添った女房が日野という所にいると聞いています。もう一度だけ対面して、死後の供養の事を言い残したいと思っているのです」と言って、片時の暇を願い出た。武士たちもさすがに岩や木のように感情がない訳ではないので、それぞれが涙を流して「何の差支えがあるでしょうか」と、これを許した。重衡卿は非常に喜んで、「大納言佐殿は、こちらにおいででしょうか。ただ今、奈良へ向かう途中の本三位中将殿が、立ったままでお目にかかりたいと仰っています」と、人を遣わせて伝えると、北の方は最後まで聞くのも待たずに「どちらに、どちらに」と走り出て来た。藍で模様を摺り出した衣に、折烏帽子を着たやせて顔色が黒ずんだ男が、縁側に寄りかかっている。それが重衡卿だった。御簾の近くに寄った北の方の「ああ、これは夢でしょうか、現実でしょうか。こちらへお入りください」と言う声を聞き、重衡卿の目からは早くも涙が流れた。大納言佐殿は目がくらみ、心も失って、しばらくは何も言う事ができなかった。重衡卿は御簾の中に上半身を入れると、泣きながら話し始めた。「去年の春、一の谷で命を失うはずであったのに、奈良の寺を焼失させたという重い罪の報いでしょうか、生きたまま捕らえられて、大路を引き回され、都・鎌倉に恥をさらしただけでも悔しいというのに、はては奈良の僧徒の手へ引き渡されて切られる事になり、こうしてやって来たのです。どうにかしてもう一度お姿を拝見したいと思っていましたので、今となってはもう思い残す事はありません。出家して、形見に髪でもと思っていましたが、許可が得られないのでどうしようもありません」重衡卿は額の髪を少し取り分けると、口が届くところで食い切って、「これを形見にしてください」と渡したのだった。北の方は、会えずにいたこれまでよりも、会う事ができた今の方が更に悲しみが増したようだった。「お別れして後は、越前三位・通盛卿の北の方である小宰相殿のように、水の底にも沈むべきでしたが、あなたが確かにこの世にはいらっしゃらないとは聞かなかったので、もしかしたら思いがけなくもう一度変わらない姿で対面する事ができるのではと思ったからこそ、辛い思いをしながら今日まで生き長らえてきましたが、今日が最後でいらっしゃるとは悲しい事です。今まで私が生き長らえてきたのは、もしかしたらあなたが許される事もあるかもしれないと思っていたからなのに」と、昔や今の事を話すにつけても、涙が止まる様子はなかった。「余りに衣がよれよれですから、お召しかえになってください」と、袷の小袖と白い衣を出すので、重衡卿はこれに着替え、着ていたものは「形見にしてください」と置いた。北の方は「それもよい事ではありますが、ちょっとした筆の跡こそ、長く形見となるでしょう」と、硯を出したので、重衡卿は泣きながら一首の歌を書いた。
   せきかねて泪のかゝるからころも後のかたみにぬぎぞかへぬる*8
北の方は最後まで聞かずにこう詠んだ。
   ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりのかたみとおもへば*9
「仏縁があったならば、後世においても必ず生まれてお会いするでしょう。極楽浄土の同じ蓮の上に生まれるようにとお祈りください。日も暮れました。奈良はまだ遠い。警護の武士をこれ以上待たせるのも失礼な事だ」と、重衡卿が発とうとすると、北の方は袖にすがって「どうして、どうして、もう少し」と引き止める。重衡卿は「心の内を、どうか分かってください。どんなに別れを惜しんでも、結局は死を逃れる事ができる身ではないのです。また来世でお会いしましょう」と、御簾から出た。本当にこの世で会うのはこれが最後かと思うと、もう一度引き返したいと思ったが、気弱になってはならないと思いを断ち切って発ったのである。御簾のすぐ近くにうつ伏してうめき叫ぶ北の方の声が、門のはるか外にまで聞こえてきた。重衡卿は馬の足を速める事もせず、涙で行く先も見る事ができない。なまじ会ってしまったために心残りとなったと、今は悔しく思っていた。大納言佐殿は、すぐに後を追って走ってでも付いて行きそうに見えたが、やはりそうはいかないので、衣をかぶって泣き伏していた。
 重衡卿を引き取った奈良の僧徒たちは評議を始めた。「そもそもこの重衡卿は、重大な罪を犯した悪人であるので、三千五刑*10といわれる刑罰にも当てはまらず、捕らわれて処刑されるという悪果を受ける事になったのである。仏敵、法敵の逆臣であるのだから、東大寺興福寺の大垣の外を引き回してから、首だけを出して地中に埋め、のこぎりにて処刑するべきだ」そこへ老僧たちが口を開いた。「それは僧侶が行う処刑の法としては穏便なものではない。ただ守護の武士に身柄を引き渡して、木津*11の辺りにて処刑するべきだ」よって、重衡卿は武士の手に渡った。木津川の端で、武士が重衡卿を切ろうとすると、見物する奈良の僧徒たちは数千にも上った。
 重衡卿に長年仕えていた侍で、木工右馬允・知時という者がいる。今では八条女院*12に仕えていたが、重衡卿の最後を見ようと、馬に鞭を打った。たった今にも切られるというところに駆けつけて、あふれ返る人々の中をかき分けながら進み、重衡卿のそばまで来た。「知時は、最後のご様子を拝見しようと、ここまでやって参りました」と泣きながら言うと、重衡卿は「その志は本当に感心である。仏を拝んでから切られたいと思うのだが、どうしたものだろう。私の行った事は、余りに罪が深いと思うのだ」と言った。知時は「たやすい事でございます」と、守護の武士に相談して、その辺の仏を一体、連れてきた。幸いな事に、阿弥陀仏であった。河原の砂の上に立てると、すぐに知時は衣の袖口に通してある紐を取って、仏の手に掛け、重衡卿のもとへ運んだ。重衡卿はこの阿弥陀仏に向かって言った。「調婆達多*13は三つの大罪を犯し、釈尊の教法のすべてを滅ぼしながらも、ついには、来世において天王如来に生まれるという釈尊の予言を授かりました。この世で作った罪業が非常に深いといえども、仏法の教えに遭遇した逆縁が効力を発揮し、返って悟りを開く手がかりとなったのです。今、重衡が逆罪を犯した事は、まったく自分から思い立った事ではありません。ただ世間のしきたりに従うという道理を重んじたまでの事です。命を宿す者で、誰が天王の命令をないがしろにする事ができるでしょうか。この世に生を受けた者で、誰が父の命令に背く事ができるでしょうか。どちらも、辞する事はできません。それが道理に叶っているかどうかは、釈尊がお見通しです。よって、罪による悪果がたちまちに表れ、私の運命は今限りとなりました。どれだけ後悔しても後悔しきれず、悲しいばかりです。ただし仏法の世界は、慈悲を心としており、衆生の苦しみを救う機縁はいろいろとあります。『唯縁楽意、逆即是順*14』、この文を肝に銘じよう。ひとたび阿弥陀仏の名を念ずれば、無量の罪もたちまちに滅びる、という。願わくは、逆縁をもって順縁とし、ただ今の最後の念仏によって、九品の浄土に生を授けてください」重衡卿は大声で念仏を十返唱えながら、首を切られたのだった。これまでの悪行はもちろん悪い事ではあるが、今の有様を見て、数千人の僧徒も、警護の武士も、皆が涙を流した。重衡卿の首は、般若寺*15の大鳥居の前に掛けられた。治承四年の奈良の戦の際、重衡卿がここに立って、寺院を滅ぼした事によったのである。
 重衡卿の北の方である大納言佐殿は「首がはねられたのなら、胴体を取り寄せて供養をしよう」と、迎えの輿を遣わせた。思ったとおり、胴体は捨て置かれていたので、取り上げて輿に入れ、日野へ持ち帰られた。これを待っている北の方の心の内を思うと気の毒で仕方がない。昨日までは立派な様子だったが、暑い季節であったので、早くも変わり果てた姿となってしまった。とはいえ、このままにしておく訳にはいかないので、付近の法界寺*16という所で、たくさんの然るべき僧たちに頼み、供養を行った。首は、「大仏の聖」と呼ばれる俊乗房*17に話したところ、奈良の僧徒たちから返され、日野へ届けられた。首も胴体も煙となり、骨は高野山へ送られたが、墓は日野に建てられた。北の方も髪を下ろし、重衡卿の後世での冥福を祈ったというから哀れな事である。

―巻第十一 終わり―

巻第十一の月日

*1:しげひらのきられ

*2:むねもち

*3:伏見区醍醐に通じる道

*4:伏見区の醍醐の南

*5:藤原北家の末裔

*6:すけどの

*7:六条天皇の乳母

*8:抑える事ができずに流れる涙で濡れたこの衣を、後の世の形見として脱ぎ置いていきます

*9:脱ぎ置いてくださった衣も今となっては何の甲斐があるでしょうか、今日限りの形見かと思えば辛いものです

*10:古代中国で行われた入墨・鼻そぎ・足切り・去勢・死刑の五刑と三千の付属刑

*11:京都府相楽郡木津町

*12:鳥羽天皇の第三皇女

*13:提婆達多

*14:逆縁と思われるものも実は順縁と同じである

*15:奈良市般若寺町にある

*16:京都市伏見区日野西大道町にある

*17:しゅんじょうぼう:焼けた東大寺の再建のための勧進帳を拝命した