「秋風」

川

 志賀直哉の「秋風」は実際の事件を題材にして書かれた戯曲である。
 科学者の夫が二十歳前の娘に、家を出て老歌人のもとへ走った同じく歌人の妻への思いを語っている。老歌人が死に、妻は家へ戻りたい様子を見せているのだ。
 妻が善良な人間であることはよく分かっている。今でも妻を憎んではいないし、むしろあまりに純粋で不憫にさえ思う。世間体など問題ではない。それなのに、どうしても妻を呼び戻す気にはなれないのだと夫は言う。

俺には寧ろ、この気持ちは倫理道徳以前のものだという風に思われるのだよ。覆水盆に還らず、という黴の生えた言葉があるが、もっと新鮮な意味でこれは真理だという気がするんだ。

 現実に生きる者、現実と相容れない世界に生きる者、この二つの人間の間の溝がこれほど巧みに表された作品を、私は他に知らない。




――引用は、「秋風」 灰色の月/万暦赤絵 (新潮文庫 し 1-6) 志賀直哉 より