「川釣り」

川

 井伏鱒二の「川釣り」に収められている小品や短編小説を読んでいると、湿った谷間を勢いよく下る渓流、ほどよく広がる河原に滔々と流れる川と、氏が今まさに訪れている川が私自身の知っている川の姿を借りてたちまち目の前に現れる。
 しかし、何と言ってもやはり一番の楽しみは氏の「眼」である。

夏の真昼、真青な淵のほとりに立ち、水の落ちこむあたりから浮木*1を流す。水の底の鮠*2は「あぶねえぞ、あぶねえぞ。」と警戒している。「今日もまた、あの自称釣名人がやって来た。」と警戒しているが、餌が淵から流れ出ようとすると、もう鮠はじっとしてはいられない。水の底できらりと銀色に光り、私の竿に手ごたえを加えるのである。ときには、朱色の漆を塗ったような大物があがって来る。町から買い出しに来た人が通りすがりにそれを見て「あ、金魚だ。」と叫んだのを私は耳にしたことがある。「しかし金魚が谷川にいるわけはない。」こう教えてやりたいのを我慢しているのは、私の場合では得意の絶頂ともいうべきところであった。

 氏自らが、すぐに向きになったり得意になったりする自身を外から眺めては「しょうがないな」とクスッと笑っているような気がしてならない。自尊心を捨て切った人の業であろう。真似しようとしてできるものではない。


――引用は、「川釣り (岩波文庫)」手習草子・鮠釣り より

*1:うき

*2:はや