平家物語を読む175

巻第十一 鏡

 四月二十八日、鎌倉の前兵衛佐・頼朝は従二位になった。越階*1といって位が二階上がる事ですらめったにない朝恩であるのに、これは三階の昇進である。本来は三位になるはずだったが、平家の先例を忌み嫌っての事であった。
 その夜の十二時頃、三種の神器の一つである内侍所*2が、太政官の庁より温明殿*3へ入った。後鳥羽天皇が訪問なされて、三晩に渡り臨時の神楽が行われた。右近将監・多好方*4天皇の特別の命を受け、家に伝わる「弓立*5」「宮人*6」という秘伝の神楽歌の曲を演奏し、その功労を賞して褒美を与えられたというからめでたい事である。この歌は、好方の祖父で八条判官・資忠という楽人の他は知る者がいなかった。にもかかわらず資忠は余りにその相承を拒み、息子の親方*7にも教えずにいたのだが、堀河天皇*8にはお伝えして死んだ。よって堀河天皇が、親方に教えられたのである。この歌が絶えてしまう事を惜しまれる心に、感激の涙をこらえる事ができない。
 そもそも内侍所という鏡には以下のいわれがある。昔、天照大神が天岩戸に閉じこもった時、どうにかして自身を映し残して子孫に見せようとして鏡を鋳た*9。が、心にそぐわないという事で、再び鏡が鋳られた。先の鏡は、紀伊国日前宮・国懸宮*10に祭られている。後の鏡は、皇子の天忍穂耳尊*11に与えられ、天照大神は「同じ殿に住みなさい」と言い添えた。さて、天照大神が天岩戸に閉じこもり、全世界が暗闇になった時、八百万の神々が集まり、岩戸の口で神楽を演奏したところ、天照大神は感動を抑える事ができずに、岩戸をほんの少しだけ開いてこれを見ていた。この時、互いの顔が白く見えた事から「面白*12」という言葉が始まったと聞く。その時、手力雄命*13という大力の神が、駆け寄ってえいという声と共に岩戸を開けた時から、岩戸は開けられたままだという。さて内侍所だが、第九代の開化天皇の治世までは、天皇と同じ殿に置かれていたが、第十代の崇神天皇の治世の頃、霊威を恐れて、別の殿に納められた。近頃は温明殿に置かれている。平安遷都*14の後、百六十年を経て、村上天皇*15の治世である天徳四年九月二十三日の深夜十二時頃に、内裏の中で初めて火事が起こった。火は宣陽門にある武士の詰所から出たので、内侍所のある温明殿も程近い。まったくの真夜中の事であるので、内侍所に仕える女房も女官も出仕してはおらず、神鏡を運び出す事すらできない。小野宮殿*16天皇の御所へ急ぎ駆けつけて「内侍所は既に焼失してしまいました。この世はもうおしまいです」と、涙を流していると、内侍所は自ら炎の中から飛び出してきて、紫宸殿の前庭の桜の梢に掛かったのである。光り輝くその様子は、山の端から昇る朝日のようであった。小野宮殿はこの世がまだ終わりではなかったと、嬉し涙が止まらない。右の膝を地面につき、左の袖を広げると、泣きながら「昔、天照大神は代々の天皇を守護すると誓われました。その誓いが今も続いているのなら、神鏡をこの実頼の袖に宿らせてください」と言い終るか終わらないかのうちに、内侍所は小野宮殿のもとへ飛び移ってきた。すぐにこれを袖に包んで、太政官の朝所*17へ届けた。今の時代に、身を持って神鏡を守ろうと考える人がいるだろうか。また神鏡も、人の手に宿ろうとはしないであろう。昔の方がやはり人間も優れていたのである。

*1:おつかい

*2:八咫鏡

*3:うんめいでん:紫宸殿の東南にある

*4:おおのよしかた:神楽の名手・多資忠の孫

*5:ゆだち

*6:みやびと

*7:ちかかた

*8:第73代天皇

*9:記紀にはこのような記述はなく、諸神が天照大神の出現を祈願して鋳た事になっている

*10:にちぜん・こくげん:現和歌山市秋月に左右に並んである

*11:あまのおしほみみのみこと

*12:おもしろ

*13:たぢからおのみこと

*14:794年

*15:第62代天皇

*16:関白太政大臣藤原実頼

*17:あしたどころ:参議以上の高官が政務や儀式を執り行う場所