平家物語を読む155

巻第十 高野巻*1

 三位中将・維盛卿を見て、滝口入道は「これは現実の事とは思えません。どうして屋島からここまで逃れて来たのですか」と言った。維盛卿が「他の人々と同様に都を出て、西国へ向ったのですが、故郷に残してきた幼い子たちが恋しく、いつになっても忘れられるとは思えませんでした。口には出さなくとも、その様子から思い煩っている事は明らかだったのでしょう、宗盛殿にも二位殿にも『この人は池の大納言のように裏切りの心がある』などと警戒されたので、生きていても仕方のない身であると、ますます心は落ち着かず、屋島をさ迷い出て、ここまでやって来ました。どうにかして山伝いに都へ行って、恋しい者たちともう一度会いたいと思いましたが、捕らえられた重衡卿の事を思えば悔しく、それも叶いません。いっその事、ここで出家して、火の中、水の底にでも入ろうと思っているのです。ただし、熊野へ行きたいという予ねてからの願いがあります」と答えると、滝口入道は「夢まぼろしのような世の中なのですから、どのように生きても構わないでしょう。死後、永遠に地獄の闇の中に堕ちる事こそ辛い事なのです」と言った。すぐに滝口入道を先導者に、維盛卿は堂塔を巡礼し、奥院へ向った。
 高野山は、都から遠く二百里、人里を離れた深山にある。清らかな風が梢を鳴らし、夕日の影が静かだった。八つの峰・九つの谷は、胎蔵界曼陀羅の八葉九尊*2とも見え、心はこの上なく澄み渡った。霧の立ちこめる林の底では美しい花が咲き、修行者の鈴の音が山頂にかかる雲に響いている。瓦にはノキシノブが這い、垣根には苔が生えて、長い年月を経てきた事を思わせる。そもそも延喜*3の頃に、醍醐天皇*4が夢でのお告げによって、弘法大師に檜の肌色の衣を用意なされた時、使者の中納言・資澄*5卿が般若寺*6の僧正・観賢*7を伴い、この高野山に登り、霊廟の扉を開いて、その衣をお着せしようとすると、霧が厚く立ち込めて、入定*8した弘法大師を拝む事ができなかった。観賢が悲しみの涙を流して『私は慈悲深い母親の胎内から生まれて、師の弟子となって以来、いまだ戒律を破った事はありません。そうであるのに、どうして拝ませていただけないのでしょうか』と、身体を地に投げ、涙を流して懺悔したところ、少しづつ霧は晴れ、月が出るかのように、弘法大師が現れたのである。観賢は喜びの涙を流しながら弘法大師を拝み、衣をお着せした。髪が伸びて長くなっていたので、剃ってさしあげたのは喜ばしい事であった。こうして使者の資澄と観賢は弘法大師を拝む事ができたが、観賢の弟子である石山の内共・淳祐*9――この時はまだ少年の姿でお供していたのだが――だけは拝む事ができずに嘆き沈んでいた。そこで観賢が手を取って、弘法大師の膝に押し当てたのだが、その手は一生涯の間、いい香りがしたそうだ。その香りは、石山寺に所蔵されている経典に移って、今もあるという。弘法大師醍醐天皇へ返事をした。「私は昔、菩薩*10に会って、直接に印明*11を伝えられた。比類のない誓願を起こして、高野山という辺境の地に仕え、昼夜に万民を憐れみ、末世に法華経の説法を行い衆生を救おうという普賢菩薩誓願にすべてを捧げている。肉身のまま入定し、弥勒菩薩の出現を待っているのだ」あの迦葉*12がマガダ国の鶏足山の洞窟にこもって、弥勒菩薩の出現を待っているというのも、このようなものと思われた。弘法大師の入定は承和二年三月二十一日の午前四時半頃の事であるので、経過したのは三百年ほど、この先、五十六億七千万年後、この世に出現する弥勒菩薩によって竜華樹の下で行われる三度の説法を待たれているというから先は長い。

*1:こうやのまき

*2:大日如来とその周囲の八葉の蓮に乗る四仏・四菩薩

*3:901〜923年

*4:第60代天皇

*5:すけずみ

*6:京都市右京区鳴滝にある蘇我日向の創建と伝えられる寺

*7:かんげん:東寺の第九代長者、第四代金剛峰寺座主、初代醍醐寺座主などを歴任し、般若寺を再興した

*8:にゅうじょう:精神統一し無我の境地に入る事

*9:じゅんゆう:菅原道真の孫

*10:菩提を求めて修行し、この世の人々に恵を与えようとする人の称

*11:いんみょう:手に印相を結び、口に真言を唱える事

*12:かしょう:釈迦の十大弟子の一人